夢野久作ってどんな人?その生涯は?性格を物語るエピソードや死因は?

出典:[amazon]決定版 夢野久作全集 日本文学名作全集

夢野久作という作家をご存知ですか?夢野久作は明治に生まれ、日本探偵小説3大奇書の1つである「ドグラ・マグラ」を書いた作家として知られています。小説家以外にも、禅僧、陸軍少尉、郵便局長などさまざまな経歴のある異色の作家です。47歳という短い生涯でしたが、その作品の輝きは現代でも失われず多くの読者を魅了し続けています。今回は、そんな夢野久作の生涯についてご紹介します。

夢野久作の生涯について


夢野久作(本名・杉山直樹)は、1889年(明治22)、福岡県福岡市に生まれました。父は山縣有朋や松方正義などの参謀を務め、「政界の黒幕」と呼ばれた右翼の大物・杉山茂丸です。父・茂丸と母・ホトリが早くに離婚したため、幼い頃は祖父母に育てられました。このときに、祖父から中国の「詩経」や「四書五経」などを徹底的に教わったと言われています。3歳になると「能」の喜多流を習い始め、早くから日本文化に触れています。

尋常小学校及び尋常高等小学校を卒業した久作は、福岡県立中学修猷館(しゅうゆうかん)に入学しました。このころの久作は、宗教や文学、美術、テニスに熱中する青年だったそうです。また1908年(明治41)には志願兵として1年間「近衛師団」(※1)へ入隊しています。除隊後の1911年(明治44)、当時は無試験で入学できた慶應義塾大学文学部に入学し、歴史を専攻しました。また翌年には将校教育を受け、陸軍少尉の称号を得ています。

以前から文学に目覚めていた久作でしたが、父が文学嫌いだったことから大学を中退させられ、福岡に戻ることになります(1913年)。福岡に戻った久作は杉山農園という農園経営を始めますが2年で失敗し、1915年(大正4)再度上京し僧侶として出家します。奈良や京都で修行した後、吉野山や大台ヶ原山(※2)に入山しましたが、これも2年で還俗します。

1918年(大正7)、鎌田クラと結婚した久作は父・茂丸のつてで九州日報(現・西日本新聞)の新聞記者となりました。この頃から童話などを新聞に投稿するようになり、少しずつ作家としての活動を開始します。新聞記者としての仕事を続けるかたわら、1926年(大正15)から代表作「ドグラ・マグラ」の原型となる「狂人の解放治療」という作品を書き始め、およそ10年を経た後「ドグラ・マグラ」(1935年)が出版されました。

1926年(大正15)から九州日報の経営が困難となり、父・茂丸とともに資金調達に奔走しますが、この年に雑誌「新青年」に応募した「あやかしの鼓(つづみ)」が2等に入選し、37歳で作家デビューを果たします。そしてこの作品から夢野久作というペンネームを使い、多くの名作を生み出すこととなりました。

その後1929年(昭和4)に発表した「押絵の奇蹟」が江戸川乱歩から賞賛され、久作の文壇での認知度が高まることとなります。それ以降も「少女地獄」(昭和11)、「人間腸詰」(昭和11)などを発表し、怪奇小説や探偵小説の分野で久作はその才能を開花させ、前述の「ドグラ・マグラ」出版の際には出版記念会イベントまで予定されるほどの作家になりました。しかし、父・茂丸が1935年(昭和10)に急死したことで、莫大な負債の整理に追われた久作は、資金調達に奔走することになります。そんな日々が祟ったのか、久作自身も父が亡くなった翌年の1936年、脳溢血のため急死してしまいます。このとき久作はまだ47歳でした。

47歳の若さでこの世を去った夢野久作ですが、久作の二人の息子はその後大きな活躍をしています。長男の杉山龍丸(たつまる)は農業技術者として「インド緑化の父」と称され、次男の杉山参緑(さんろく)は童話作家として平成の時代まで活躍しています。

※1、近衛師団とは天皇陛下や皇居を守る人々のことを指します。
※2、大台ヶ原山(おおだいがはらやま)とは、奈良県と三重県の県境にある山です。1980年ユネスコパークに登録されています。

性格を物語るエピソードは?

・夢野久作は作家の肩書き以外にも、禅僧や陸軍少尉、郵便局長、農園経営など多くの肩書きをもっていたことで知られています。それと同じくペンネームも多く使用し、それぞれの名義で作品を残しています。このことから、夢野久作という人物は、変わり身の早い人物だったことが想像できます。

・また幼い頃祖父母に育てられた久作は、勉強がよくできるとご褒美として煙管(きせる)でタバコを吸わせてもらっていたそうです。それにより、3歳の頃にはすでにニコチン中毒であったとまことしやかに言われています。

・夢野久作のペンネームの由来は、「あやかしの鼓」を読んだ父・茂丸が「夢の久作の書いたごたる小説じゃねー」と感想を述べたことからきているそうです。ちなみに「夢の久作」とは福岡の方言で「夢想家や夢ばかり見る人物」を意味しています。

死因について

代表作「ドグラ・マグラ」を刊行した翌年の1936年、父が残した莫大な負債の整理に追われていた久作は、その負債処理を当時のアサヒビールの重役に任せていました。その人物が自宅に訪れ負債に関する書類を受け取った後、「今日は良い日で・・・」と言いかけて笑ったとき、その場に倒れてしまいそのまま帰らぬ人となりました。死因は脳溢血(のういっけつ)でした。

まとめ

今回は夢野久作の人生についてご紹介しました。怪奇ミステリー作家の印象の強い夢野久作ですが、童話や詩のような優しい作品も数多く残しています。数ページで読めてしまう作品もありますので、青空文庫などで探してぜひ読んでみてください。きっと夢野久作の新しい一面が見られると思いますよ。

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