徳田秋声ってどんな人?その生涯・子孫は?性格を物語る逸話や死因は?

出典:[amazon]徳田秋声 名作全集: 日本文学作品全集(電子版) (徳田秋声文学研究会)

徳田秋声は、島崎藤村や田山花袋と並ぶ自然主義文学の代表的な作家です。明治~昭和時代に活躍し、静かに現実を見つめ淡々と描写していく作風で数多くの作品を世に出し高い評価を受けました。今回は徳田秋声の生涯や息子、逸話などをご紹介します。

徳田秋声の生涯

ここでは徳田秋声の生涯についてみていきます。

誕生から学生、放浪生活

徳田秋声は本名末雄といい、1872年2月1日(明治4年12月23日)に現在の石川県金沢市にて生まれました。加賀藩の家老横山氏の家臣であった徳田雲平と妻タケの第6子として誕生し、明治維新後の没落士族の末っ子であったため、貧しい幼少期を過ごしたといいます。さらに病弱でもあり、小学校へも1年遅れての入学でした。幼い頃から「自分の影の薄い生」「孤独」「憂鬱」を抱えて生きていたといいます。

1888年に第4高等学校に入学した頃から読書に熱心になり、上級生から小説家になることを勧められますが、1891年に父が死去したため退学し、友人の桐生悠々と上京します。尾崎紅葉の門を叩くものの、入門は認められませんでした。その後各地を転々とする生活が続きます。

尾崎紅葉門下生になってから名声を得るまで

1895年出版社である博文館の編集部に就職し、尾崎紅葉門下生の泉鏡花のすすめで、紅葉の門下に入ることができました。徳田秋声は、泉鏡花、小栗風葉、柳川春葉とともに紅門の四天王と呼ばれるほどになります。

1902年には、手伝いにきていた女性の娘小沢はまと事実上の結婚生活がはじまり、翌年に長男が誕生します。尾崎紅葉の死去とともに硯友社は衰退しますが、この頃から徳田秋声の数々の作品が生み出されていくこととなります。

川端康成が言うには、秋声の作品は明治41年(秋声37歳)の『新世帯』にはじまり『足迹』、『黴』、『爛』で峠に達し、大正4年の『あらくれ』で新たな頂を極めたといいます。
なお『黴』は夏目漱石の推薦により東京朝日新聞に連載され、翌年に単行本化。書評や特集で取り上げられ評判となり、その後の『足迹』も評価され、島崎藤村や田山花袋らとともに自然主義文学の担い手として、名声を得ました。

大正時代に入ると大衆小説・通俗小説が流行し、連載を4本同時に抱えるほどの人気作家となっていました。

妻の死と山田順子と低迷期

1926年に妻が脳溢血で急死すると、小説家でもあった山田順子が愛人として秋声の家に転がり込み、世間を賑わせます。秋声は『元の枝へ』などの「順子もの」と呼ばれる短編を発表したものの、破局してしまいました。

順子との騒動のあと、秋声の作家活動は低迷し、ダンスを習ったり、ホールに出入りしたりしていました。こうした状況の秋声を励まそうと1932年に井伏鱒二などが「秋声会」を結成し、秋声会の機関誌「あらくれ」を創刊。さらに島崎藤村の提唱で「徳田秋声後援会」が組織されるなど手厚い応援がおこなわれます。さらに満州事変の後、プロレタリア文学運動は退潮し、文芸復興が求められた機運もあり、昭和8年『町の踊り場』『和解』『死に親しむ』の3つの短編を発表し、秋声は復活を果たしました。

晩年

その後も作品を次々と発表し、島崎藤村や正宗白鳥らと日本ペンクラブを設立するなどします。1936年に頸動脈中層炎で倒れ、生死を危ぶまれたものの復活し、文芸懇話会賞や菊池寛賞を受賞したり、帝国芸術院の会員になったりと活躍しました。そして最後の作品である『縮図』を完成せぬまま、1943年11月18日、肋膜癌により71歳で死去しました。

徳田秋声の息子、逸話

ここでは、徳田秋声の息子や名前の由来、趣向についてお伝えします。

徳田秋声の息子一穂

「徳田一穂」は、徳田秋声の息子として明治36年(37年という説も)に生まれ、秋声の私小説の大半に登場する人物でもあります。幼少から虚弱体質で受験の失敗や大学中退、定職につかず気ままに生活していましたが、昭和7年秋声会の機関誌「あらくれ」の編集発行人となり、文学的な活動をするようになります。昭和10年に娼妓を救い出して自宅に匿い、父に事後処理をさせるという事件をおこしましたが、この事件をもとに小説を発表し、小説家として活動をはじめます。しかし秋声の死とともに活動を終え、秋声の自宅を守ったり、父の作品の整理や解説文を残すなどしました。

「秋声」という名について

「秋声」という名は、1893年自由党機関誌の「北陸自由新聞」の編集をしていた頃の私記「秋聲録」から使い始めたそうで、由来というほどのものはなく、若いときに戯れにつけた名前で、活字になってからも嫌だと思いつつも、本名よりましだと思って使っていたという記録が残っています。

ヘビースモーカー

秋声はお酒はあまり飲まなかったようですが、ヘビースモーカーであり、1日に朝日を4~5箱とチェリーやバットなどを2~3箱吸っていたそうです。

まとめ

いかがでしたか?自然主義文学の大家として高い評価を受けていた徳田秋声。作家活動が低迷した際も、手厚い応援により執筆に戻ってきたように、周りからも一目おかれていたことがわかります。私小説も多いので、徳田秋声自身の生き様などが作品からわかるのも興味深いですね。徳田秋声の生き様や自然主義文学が気になる方は、ぜひ読んでみてください。

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