田辺聖子ってどんな人?その生涯・家族は?性格を物語るエピソードや死因は?

出典:[amazon]田辺聖子 十八歳の日の記録

大阪に生まれ、生涯にわたり大阪を愛し続けた作家・田辺聖子。田辺聖子は小説、古典文学、エッセイなどの分野で多くの作品を執筆し、「女性目線」ならではの社会風刺や、軽快なエッセイなどで人気を博しました。またNHKの朝の連続テレビ小説「いもたこなんきん」の脚本を手掛けるなど、脚本家としても多くの作品を残しています。昭和初期に生まれ、令和元年まで生きた作家・田辺聖子とはどのような人物だったのでしょうか。今回は田辺聖子のお茶目な人生について解説します。

田辺聖子の生涯について

田辺聖子の人生について紹介します。昭和初期に生まれ、91歳で亡くなるまでに多くの作品を残しました。

文学好きだった幼少期

田辺聖子は、1928年(昭和3)、父・貫一と母・勝世の子として大阪府大阪市に生まれました。父・貫一は写真館を経営しており、聖子が生まれた2年後に弟の聡と、その翌年に妹の淑子が生まれています。子供の頃から文学少女だった聖子は、大阪文化に親しみながら、古典文学や、当時流行していた雑誌「少女小説」を夢中になって読んだそうです。

その後、淀之水高等女学校(現・昇陽中学校・高等学校)に入学した聖子は、絵画部に所属しています。おそらくこの頃から作家の道に憧れていたであろう聖子は、自分でも作品を書き始め、雑誌「少女の友」に「さら」という作文を応募します。そしてそれが川端康成の目に留まったことで雑誌デビューを果たします。

太平洋戦争が始まると聖子もその煽りを受け、戦時中は動員として航空機製作所の工場で働くようになります。日本が敗戦となり強い喪失感に打ちひしがれた聖子は、その気持ちを紛らすように古典文学を読み耽ったそうです。

働きながら作品を投稿し作家デビュー

樟蔭女子専門学校を卒業した聖子は大阪の金物問屋に就職します。金物問屋で働く一方で、「文芸首都」や「大阪文学」などの雑誌に作品を投稿し、作家になる道を模索していました。そして1952年、聖子が24歳の時に相馬八郎名義で書いた「診察室にて」が文芸倶楽部で第1席となり、これを機に聖子は会社を退職して「古事記」や「日本書紀」などの古典文学の研究に没頭します。それと同時に大阪文学学校の夜間主に通い、作家・足立巻一(あだち・けにち)の指導の元、「私の生い立ち」などのエッセイを書き始めます。

1956年には「虹」を発表し、これが大阪市民文学を受賞した事で田辺聖子は本格的に作家としての人生を歩み出しました。恋愛をテーマにした作品や柔らかい大阪弁を用いた、いわゆる「方言文学」が話題を呼び、1964年に「感傷旅行(センチメンタル・ジャーニー)」で第50回芥川賞を受賞した聖子は、一気に人気作家の道を駆け登ります。

人気作家として

芥川賞を受賞したことで人気作家の仲間入りを果たした聖子は、恋愛小説や「女の口髭」、「浪速ままごと」などの社会を風刺したエッセイなどを数多く執筆します(とにかくすごい量です)。その一方で、ライフワークとなっていた古典文学研究を活かした「新源氏物語」や歴史小説なども手がけるようになり、歴史小説の大家・司馬遼太郎とも親睦を深めます。後年、俳人・小林一茶の生涯を描いた「ひねくれ一茶」が人気を博し、聖子はこの作品で吉川英治文学賞を受賞しています。

また、SF作家の小松左京や筒井康隆とも長く親交を深め、筒井は聖子の連作短編集「お聖どん・アドベンチャー」のタイトル案を提供するまでに至りました。さらに数々の文学的功績が認められた田辺聖子は、1987年から2004年までの27年間にわたり直木賞選考委員を務めており、その間、女性作家の地位向上に大きな役割を果たしています。

衰えない執筆意欲と晩年

文壇での活躍が認められた聖子は1995年に紫綬褒章、2000年に文化功労賞を受賞し、2006年にはNHKの朝の連続テレビ小説「いもたこなんきん」の脚本を手がけるなど、2000年代に入っても精力的に執筆活動を続けました。80歳を超えてからも「老いてこそ上機嫌」や「おいしいものと恋の話」などを刊行し、90歳で「女のホンネ男のホンネ」(2018年)を出版するなど亡くなる前年まで筆を取っています。

さまざまな人生模様を執筆した田辺聖子でしたが、2019年(令和元年)6月6日、胆管炎のため神戸の病院にてこの世を去りました。享年91歳という大往生でした。

田辺聖子の家族について

独身生活を謳歌していた田辺聖子でしたが、友人の作家・川野彰子が亡くなったことを契機に転機が訪れます。川野が亡くなった後、聖子は川野の夫であり医師の川野清夫と親しい間柄になり、1966年、後妻として川野と結婚します。しばらくは離れて結婚生活を送った2人ですが、義父の死後、川野の家族と同居生活が始まり、聖子は総勢11人の大家族を切り盛りすることになりました。その大忙しの様子も、エッセイの中で書かれています。

田辺聖子のエピソードについて

田辺聖子のエピソードについて解説します。軽快で明るい作品が多いですが、私生活でもとってもチャーミングな人だったようです。

大のスヌーピー好きだった

スヌーピーをこよなく愛した田辺聖子は「スヌーの物語」という作品も執筆しています。そのスヌーピー愛は凄まじく、ある日、人間大のスヌーピーが売っているのを知るとすぐさま取り寄せて、スヌー宝塚などと称して遊んでいたそうです。とてもお茶目なエピソードですが、エッセイを読んでみると、スヌーピーの存在は本当に田辺聖子の心の支えだったことがわかります。

宝塚ファンでもあった

大の宝塚歌劇団のファンとしても知られる田辺聖子は、自身の「隼別王子の反乱」や「新源氏物語」が舞台化されたことにとても喜んだそうです。自分の作品が宝塚で舞台化されるとは、それだけでも田辺聖子の作品の人気ぶりがうかがえるエピソードです。

ツチノコ探検にでかけた?

好奇心の塊だった田辺聖子。今から50年程前に話題となった「ツチノコ」を探しに探検に出たそうです(1973年)。「ツチノコ」について聞いたことがない人が多いと思いますが、ツチノコとは、日本に生息していると言われる「未確認生物」です。当時は見つけたら一億円とまで言われ、日本中のマニアが熱狂的にツチノコ探しをしました。実際には「蛇の奇形」だと思いますが、田辺聖子は行動力と好奇心が抜群だったようですね。

まとめ

いかがでしたか?今回は田辺聖子の生涯を解説しました。91歳という長寿で、令和になるまで存命だったのは驚きですね。生涯で執筆した作品は膨大な数にのぼりますが、特に日本の古典文学において、「田辺源氏」と呼ばれる源氏物語の現代語訳を執筆したことは大きな業績の一つだと思います。軽妙な筆致でありながら、読む人の心をグッと捉える田辺聖子の作品をぜひ読んでみてください!。

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