井上靖ってどんな人?その生涯は?性格を物語るエピソードや死因は?

出典:[amazon]井上靖―わが一期一会 (人間の記録)

井上靖という作家をご存知ですか?井上靖は明治末期に生まれ、平成の時代まで活躍した日本を代表する作家の一人です。40代で文壇デビューという遅いスタートでしたが、その後40年間の作家生活のなかで数々の名作を世に送り出しました。新聞記者を経て、日本を代表する作家となった井上靖はどのような人物だったのでしょうか。今回は井上靖の生涯についてご紹介します。

井上靖の生涯について

井上靖は1907年(明治40)、北海道の旭川町(現・旭川市)に生まれました。父の隼雄は軍医をしており、井上家は代々医者の家系をしていました。父が朝鮮に従軍したことで、靖は1歳で母方の実家の静岡に移住します。後年、靖が書いた自伝的小説「しろばんば」などで描かれる風景は、静岡での生活がベースとなっています。

1914年(大正3)、湯ヶ島尋常小学校に入学し、1920年(大正9)に浜松尋常高等小学校に編入します。とても優秀だった靖は、1921年(大正10)に静岡県立浜松中学に首席で入学しました。翌年の1922年(大正11)に沼津中学に編入し、中学卒業後の1927年(昭和2)に石川県の第4高等学校理科(現・金沢大学理学部)に入学します。大学入学後は柔道部に所属し練習に励んだそうです。またこのころから文学活動を始めており、井上泰のペンネームで「日本海詩人」や「焔(ほむら)」、「北冠(ほっかん)」(※1)などに自作の詩を発表しています。

大学卒業後、1930年(昭和5)に九州帝国大学英文科に入学するものの2年で退学。1932年(昭和7)に京都帝国大学文学部哲学科へ入学します。哲学科では「美学」を専攻していました。靖が何度も編入を繰り返したのは、学生のモラトリアムを謳歌するためだったと言われています。20代半ばから「サンデー毎日」の懸賞小説に応募を始め、「三原山晴天」や「初恋物語」などの作品が入選し賞金を稼いでいたようです。

1936年(昭和11)、「流転」でまたも「サンデー毎日」の懸賞小説に入選した靖は、千葉亀雄賞を受賞し、これがきっかけとなり大阪毎日新聞社に入社しサンデー毎日編集部に配属となります。1937年(昭和12)に起きた日中戦争に出征しますが、病気(脚気)のため除隊され、内地送還後は学芸部に配属となり宗教記者や美術記者として勤務しました。このときの部下には「白い巨塔」や「華麗なる一族」で知られる山崎豊子がいたそうです。

新聞記者を続けるかたわら、文学作品も執筆していた靖は、1950年(昭和25)「闘牛」で芥川賞を受賞します。これを機に毎日新聞記者を退社し、本格的に作家の道を歩み出します。このとき井上靖はすでに43歳でした。新聞社を退社した靖は、「戦国無頼」や「ある偽作家の生涯」、「あすなろ物語」など次々と作品を発表します。

また1958年(昭和33)に発表した「天平の甍(いらか)」で文部大臣賞を受賞し、井上靖の文壇での知名度はますます高いものとなりました。それと同時に、当時はまだ珍しかった海外視察も行っており、1960年のローマオリンピックの際には毎日新聞特派員としてヨーロッパ各地を旅行しています。その活動の一つとして、1967年(昭和42)に、ハワイ大学に講師として招かれ、日本文学についての講演を行いました。

1976年(昭和51)にはそれまでの活動が高く評価され、文化勲章の授与。1981年(昭和56)には日本ペンクラブ会長に就任するなど、靖の文学界での活動はますます活発なものになっていきます。同年、千利休の死の秘密を描いた「本覚坊遺文(ほんかくぼういぶん)」の連載を開始し、これにより1982年(昭和57)に新潮日本文学大賞を受賞しています。その後も1989年に発表した「孔子」が野間文芸賞を受賞するなど、生涯にわたり作家の第一線で活躍しました。

しかし「孔子」を発表をしてから2年後の1991年(平成3)、井上靖は急性肺炎のためこの世を去りました。享年83歳でした。40年という作家生活に幕をおろした井上靖は、生前の功績が讃えられ、生誕100年を記念する2007年にNHKの大河ドラマ「風林火山」が放送されました。

※1、北冠とは、征夷大将軍の坂上田村麻呂が東征の際に、戦勝を祈願して愛用の冠を土に埋めたという伝説からきています。

性格を物語るエピソードは?

大のお酒好きだった井上靖。その酒量は年齢を重ねても衰えなかったそうです。何度もノーベル文学賞にノミネートされた井上靖ですが、受賞を逃すたびに集まった記者たちと「ノーメル賞」という残念会を行ったそうです。
「サンデー毎日」の懸賞小説で賞金を手にした井上靖ですが、この懸賞は半年ごとの応募であったため、名前を変えて投稿し何度も入選したことでも知られています。そのため若い頃からお金には困らなかったそうです。ちなみに「サンデー毎日」の賞金は、当時の大卒新入社員の年収の半分程だったといわれています。

死因について

「闘牛」による芥川賞受賞をはじめ、かずかずの名作を世に送り出した井上靖ですが、1991年(平成3)、急性肺炎のため83歳でこの世を去りました。晩年も「親鸞」をテーマにした作品や、日系移民を題材にした「わだつみ」の完成に意欲を見せるなど、生涯にわたり執筆意欲は衰えることはありませんでした。また、井上靖の葬儀委員長は作家の司馬遼太郎が務めました。

まとめ

今回は井上靖の生涯についてご紹介しました。まさに大器晩成という言葉がピッタリの人物ですが、ノーベル文学賞を受賞できなかったことはとても残念ですね。井上靖は、歴史小説や自伝的私小説、中国を舞台にした作品など幅広い作品を多く残していますので、これを機会に井上靖の作品に触れてみてはいかがでしょうか。

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