里見弴ってどんな人?その生涯は?性格を物語る逸話や死因は?

出典:[amazon]里見〓(とん)伝―「馬鹿正直」の人生

里見弴は多くの文豪の中ではいささかマイナーな人物かもしれません。「さとみとん」と読みます。中学校時代や高校時代、教科書などで作品に出会った方はあまり多くないでしょう。

しかし、文芸誌『白樺』と言えばいかがですか?もしかしたら、聞いたことがあるかもしれません。明治時代後半から大正時代、日本で自由主義が花開いた時代の大切な雑誌です。

里見弴はその『白樺』の創刊に立ち会い、また、人情味とまごころにあふれる作風で「小説の小さん」と呼ばれ愛された作家でもありました。「小さん」とは落語史上に名前の残る名人のことです。今回はそんな里見弴の生涯と性格を語るエピソードなどをご紹介します。

里見弴の生涯

まずは里見弴の人生についてみていきましょう。

里見弴の誕生から学生時代

里見弴は本名を山内英夫(やまのうちひでお)といいます。

1888年7月14日、神奈川県で生まれました。実家の苗字は「有島」でしたが、生まれた直後、ちょうど母方で男の子が途絶えてしまったため形式上その家の養子となりました。母方の苗字が「山内」だったので、「山内秀夫」になったのです。

苗字こそ「山内」になりましたが、里見は神奈川の実家で他の兄弟たちと育ちました。七人兄弟で、白樺派の作家である有島武郎や、画家でセザンヌを日本に初めて紹介したことでも有名な有島生馬が兄にいます。芸術家兄弟ですね。兄弟の中は大変良く、お互いを「〇〇ちゃん」と呼ぶほどだったとも言われています。

学習院初等科から旧制中等科に進学しましたが、初等科時代のことについて「皇族が5人もいた」「成績が悪くて、見かねた父親が漢学者に頼んで放課後勉強をみてもらっていた」と思い出を語っています。

その後は学習院の旧制高等科から東京帝国大学文学部英文科へ進むというエリートコースを進んでいましたが途中で退学。旧制高校時代からなかなか軟派でやんちゃな学生だったようです。旧制高校の頃、学習院の院長に就任した乃木将軍についても「物の言い方が古臭い」と評しています。

里見弴が文学へ興味を持ったきっかけと『白樺』の創刊、芸者との結婚

里見弴が文学へ興味を持ったのは学習院の旧制中等科に通っている頃だったと言われています。近所に作家の泉鏡花が住んでおり、小さな時から度々行き来をして、影響を受けていたと言われています。

里見からしてみれば泉鏡花は「近所の作家のおじさん」のような親しみ深い存在であったため、敬称をつけて呼ぶことはしていなかったようですが、大人になってからそれを他の文学者たちに叱られ、それからは「先生」と呼ぶようになりました。

潔癖症で人見知りでもあった泉鏡花の数少ない友人でもありました。仲たがいしていた泉鏡花と徳田秋声を仲直りさせようと苦労したエピソードもよく知られています。

1910年、武者小路実篤志賀直哉が発起人となって創刊されることとなった文芸誌『白樺』に兄の有島武郎、有島生馬と共に参加します。有島生馬はちょうどヨーロッパ留学から帰国したところでした。

『白樺』のメンバーは皆もと学習院学生です。ほとんどが顔見知りでした。人間の尊厳をうたい、自由主義の風通しの良い空気の中、20代前半であった里見弴は少しずつ作家としての才能を開花させていきました。文壇への本格デビューはそれから5年後、中央公論に掲載された『晩い初恋』です。

同じころ、友人で『白樺』の仲間でもあった志賀直哉に連れられて行った吉原など、芸者との遊びに夢中になり、父母の反対を押し切って18歳の芸妓、まさと結婚もしました。情熱的で行動的な一面が垣間見えますね。愛人もいましたがまさとは生涯良い夫婦で、合計6人の子どもを設けました。

兄の心中、文士賭博事件、そして晩年

1923年に、里見弴は兄である有島武郎を心中事件で亡くしました。有島武郎の心中事件については、その後『安城家の兄弟』という長編小説として発表しています。

麻雀のような賭け事遊びも好きで、身内で遊んでいたところを検挙されてしまい、菊池寛のとりなしで釈放してもらうようなお騒がせな一面もありましたが、明治大学文芸科の教授を務めたり、いくつかの文学賞を受賞したり、日本芸術院の会員になったり、積極的に日本の文学や芸術に貢献しています。

神奈川県生まれの里見弴は鎌倉を好み、1926年には自ら設計に携わった住宅も建てています。建築家ライトのスタイルを取り入れた大変モダンな建物で、現在も公開こそしていませんが、イベントへの貸しスペースとして利用されています。

鎌倉時代は同じく鎌倉にゆかりが深く、終の棲家も構えた映画監督の小津安二郎とも親しくしていました。

里見弴は1983年1月21日愛した鎌倉の地で永眠。死因は肺炎です。命日がちょうど「大寒」にあたっていたため、里見の文学忌は「大寒忌」と呼ばれています。

里見弴の性格を物語るエピソード

「里見弴」はペンネームです。父親に作家になることを反対されたため、ごまかすためにつけたものだと言われています。目を閉じて電話帳を開いたところに偶然「里見」という姓が書かれていたため、苗字を「里見」にし、その時鉛筆で電話帳を「トン」とつついたから名前を「弴」にしたとのことです。

野球が大好きで、還暦のお祝いに、友人の久米正雄らと、なんと後楽園で野球の試合をしました。元気で明るく人懐こく、行動力もあった里見弴は、生涯多くの友人知人に囲まれていました。

まとめ

里見弴のその生涯や性格はいかがだったでしょうか?里見の生き方を見ていると、常に多くの兄弟、友人知人に囲まれていたことがわかります。仲たがいもありましたが、多くの人に愛され、また多くの人を愛した作家だといえるでしょう。

これを機に人情味溢れる名人芸、と言われる里見弴の作品を読んでみてはいかがでしょうか?

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