島崎藤村ってどんな人?その生涯・家族は?性格を物語るエピソードや死因は?

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「若菜集」や「破戒」、「夜明け前」などの名作で知られる島崎藤村。国語の授業で勉強した方も多いのではないでしょうか。明治から昭和にかけて旺盛な執筆活動で知られ、日本の文学界における「自然主義」の完成者とも称されています。しかし作家としての成功とは裏腹に、その人生は波乱に満ちていたようです。島崎藤村はどのような生涯を送ったのでしょうか。

島崎藤村の生涯について

島崎藤村の生涯について紹介します。恋愛や文学、現実逃避による突然の渡仏など、波瀾万丈の人生だったようです。また、代表作「蒲団」で知られる田山花袋とは生涯にわたり親交を深めました。

生い立ち

島崎藤村(本名:春樹)は1872年(明治5)、筑摩県馬籠村(現・岐阜県中津川市)に、7人兄弟の末っ子として生まれました。父・正樹は平田篤胤(あつたね)の流れをくむ国学者であり、幼い頃の藤村は父から「論語」などを学び古文・漢文の教育を受けました。9歳で長男・秀雄とともに上京した藤村は、共立学校(現・開成高校)を経て、明治学院本科(現・明治学院大学)に入学します。

もともと文学好きだった藤村は、時間を見つけては読書に耽り、西行や松尾芭蕉などの日本の古典文学や西洋文学を読み漁っていたそうです。西洋文学の中では特にシェークスピアに関心を寄せました。また、共立高校時代の恩師の影響や、大学の校風も手伝い在学中にキリスト教(プロテスタント)の洗礼を受けています。藤村は明治学院の1期生で、同級生には作家で翻訳家の戸川秋骨がいます。

学生時代を謳歌していた藤村でしたが、1886年に父・正樹が獄中死するというショッキングな出来事が起きます。この出来事は、晩年の「夜明け前」を執筆することでようやく昇華されることになります。

明治学院卒業、そして道ならぬ恋

1891年、学校を卒業した藤村はしばらく知人の雑貨屋を手伝った後、明治女学校教師に着任します。それと同時に巌本善治主催の雑誌「女学雑誌」に翻訳を掲載したり、友人の北村透谷(とうこく)らと「文学界」を刊行し徐々に作家の道を歩み出します。

しかし一方で、教え子に恋愛感情を抱いたことで自責の念に駆られ、就任した翌年の1月に教師を辞職。さらにキリスト教から脱退するなど、この頃は藤村にとって辛い時期でした。よほど教え子との関係が辛かったのか、苦しみから逃れるかのように藤村は9か月間の放浪の旅に出ます。

放浪の旅から帰り教職に復帰するも、追い討ちをかけるように藤村に不幸が襲います。

  • 「文学界」を共に立ち上げた北村透谷が25歳にして自殺
  • 長男・秀雄の不正(私文書偽造とも)が発覚し投獄
  • 思いを寄せた教え子が病死

たび重なる不幸に追い込まれた藤村はそれでも教師を続けましたが、その無気力ぶりに周囲から「燃えガラ」のあだ名で呼ばれていたそうです。そして結局は、再度退職することになりました。この時期の出来事は小説「春」に描かれています。

「若菜集」で作家デビュー、一時代を築き上げる

失意の中にいた藤村ですが、1896年から場所を仙台に移し、再び教師となります。残念なことに同年に母をコレラで亡くしますが、この頃から詩を書き始め、代表作「若菜集」で文壇デビューします。「若菜集」は好評となり明治時代の浪漫主義の開花となりました。その後も「若菜集」の他に「一葉舟」、「夏草」などの詩集を発表し、同時期に活躍した土井晩翠と並び「藤晩時代」を築きます。

仙台での生活を終えた藤村は、長野県に設立された小諸義塾(こもろ・ぎじゅく)の英語教師として招かれ、およそ6年間にわたり英語教師として教鞭を取ります。その間、妻・冬子と結婚し子宝にも恵まれますが、当時の栄養状態や医療環境が悪かったことが原因で、ほどなくして3人の娘を亡くすという痛ましい出来事がありました(この経験が元になり「家」が執筆されました)。そんな失意の中にあった藤村ですが、1906年、自費出版で出版した代表作「破戒」が好評を得て、発売わずか半年で4度の再版となり、藤村は自然主義の第一人者として認知されるようになりました。

「夜明け前」の執筆と晩年

「破戒」執筆後も、短編集「緑葉集」、「黄昏」、「並木」などを執筆し、さまざまな文芸雑誌に意欲的に作品を発表します。こうした背景には、同じ自然主義の作家で友人の田山花袋が「蒲団」で人気を博したことに対するライバル心もあったのかもしれません。

昭和に入ってまもなく(昭和2)、獄中死した父・正樹をモデルとした代表作「夜明け前」の執筆を準備し、中央公論にて昭和4年から昭和10年にかけて連載されました。「破戒」以上に人気となった「夜明け前」は屈指の傑作と評され、藤村は文壇の重鎮となっていきます(現在、桐野夏生が会長を務める日本ペンクラブ初代会長は藤村です)。

20代と30代は悲しい出来事が多かった島崎藤村ですが、晩年は比較的優雅で落ち着いた生活を送っていたそうです。執筆意欲も衰えず、「夜明け前」の続編とも言うべき「東方の門」の執筆に取り組む中、自宅にて脳溢血のためこの世を去りました。享年71歳でした。たび重なる家族の不幸と、親譲りの憂鬱を懸命に生き抜いた藤村の人生はまさに波瀾万丈といえるものでした。

スキャンダルから逃れるためにフランスへ逃げる

苦労の多い人生だった藤村ですが、なぜか女性にはモテたようです。なかでも有名なエピソードは次兄・広助の次女こま子との関係です。妻・冬子が亡くなった後、こま子は藤村の家に住み込みとなります。しかしあろうことに藤村はこま子に手を出してしまい、さらには妊娠させてしまうという大問題に発展します。

行き場が無くなった藤村はスキャンダルから逃げるかのようにフランスへ渡航します。フランスで永住も考えましたが、第1次世界大戦の影響により帰国を余儀なくされます(フランス滞在中にアパートを用意したのは、有島武郎の弟・生馬でした)。

帰国後、こま子との関係が再燃しますが、身内の計らいで、こま子が台湾に移住することで騒動は治ります。そしてこま子との関係を精算するために書かれたのが、小説「新生」です。こま子は藤村との子供を産みましたが、関東大震災から行方不明となっています。なんだか悲しい結末ですね。

まとめ

みなさんは島崎藤村の人生をどのように思いますか?自然主義文学の大家となり、文壇において確固たる地位を築いた藤村でしたが、そこに至る過程は並大抵のものではなかったようです。それは島崎藤村自身が招いたことでもありますが、たび重なる身内の不幸や恋愛事件などを見ると、「生きづらかったのではないかな」と思ってしまいます。今回の記事を踏まえた上で改めて藤村の作品を読むと、これまでとは違った解釈が生まれるかもしれません。

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