有島武郎ってどんな人?その生涯や家族・子孫は?死因は?

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有島武郎(ありしま・たけお)は明治時代から大正時代にかけて活躍した「白樺派」を代表する作家です。「一房の葡萄」や「生まれ出づる悩み」などで人気を博し、同時代の文学界に大きな影響を与えました。

有島武郎の作品の影響は今でも根強く残っており、「或る女」や「カインの末裔」は映画化もされています。「カインの末裔」は国際ベルリン映画祭でも上映され、大きな反響を呼びました。そこで今回は、有島武郎の人生やその家族を解説します。

有島武郎の生涯


有島武郎は1878年(明治11年)、現在の東京都文京区小石川に5男2女の長男として生まれました。父は大蔵省の官僚で、実業家でもあったため裕福な家庭に育ちました。武郎が4歳になると、父親の仕事の都合で(税関関係)横浜へと移住し、横浜英和小学校に通い始めます。それと同時に、「これからは英語ができないといけない」という父親の方針により、アメリカ人家庭での生活が始まりました。

10歳で学習院初等科に入学し、19歳で学習院中等科を卒業します。卒業後は農業に関心を持ち、札幌農学校(北海道大学の前身)へ進学します。ここで、新渡戸稲造や内村鑑三(かんぞう)などと出会い、キリスト教への関心をもち、入信します。
札幌農学校を無事に卒業した有島武郎は、しばらく軍隊生活を送った後、1903年にアメリカに渡りハバフォード大学やハーバード大学などで見聞を広めます。この頃に、哲学者のベルクソンやニーチェ、ロシアの作家トルストイ、詩人ホイットマンなどの思想に触れたことが、有島武郎のその後の思想的背景に大きな影響を与えました。

1907年、同じくヨーロッパを外遊していた弟・生馬と共に日本に帰国し、東北帝国大学の農学科で英語教師として働き始めます。数年間英語教師を勤めた後、弟の生馬が以前から交流のあった志賀直哉と出会い、雑誌「白樺」に参加することになりました。それ以降「白樺派」の中心人物として多くの名作を発表するに至ります。

1909年に神尾安子と結婚し、3人の子供の父となりました。ところが結婚からわずか7年後の1916年に安子が結核に罹り他界してしまいます。安子の他界と父の死を機に、有島武郎は本格的に作家としての活動を始めるようになり、「或る女」「カインの末裔」など精力的に作家活動に専念します。

しかしその意欲も長くは続かなかったようです。小説「星座」の執筆途中に、ついに創作を断念し筆を置くことになりました。その後は北海道に所有していた広大な土地を開放し、自身の思想と現実の統一を求めました。

北海道の土地解放にあたって、有島武郎は当時の社会主義的時代背景と、自身のブルジョア家系との葛藤に悩んでいたことがうかがえます。

1923年になると、波多野秋子という女性編集者と出会います。この出会いがもととなり、秋子の夫である春房からの脅迫を受け、苦悩の末、自身の思想を貫くために秋子とともに軽井沢の別荘にて心中してしまいます(詳しくは以下の死因を参照)。

家族や子孫は?

武郎の弟、有島生馬(いくま)は日本を代表する画家として活躍しました。また少年時代から作家の志賀直哉と交友があったことから、武郎と同様「白樺」に参加しています。長くヨーロッパに滞在しており、フランスからレジオン・ドヌール勲章を受けた程の人物です。日本でもその功績が讃えられ、文化功労賞を受賞しました。長野県には有島生馬記念会館があり、今でもその業績を見ることができます。

里見弴(さとみ・とん)も武郎の弟であり、長く日本の文壇において活躍しました。里見弴はペンネームで、本名は山内英夫です。武郎の実の弟ですが、母方の山内家の養子となり山内姓を名乗ることになりました。里見弴も雑誌「白樺」に参加し、作家として活躍するかたわら、日本を代表する映画監督、小津安二郎と共同で映画制作を行うなど多くの分野でその才能を発揮しました。兄の生馬と同じく文化功労賞を受賞しています。

死因は?

有島武郎は、陸軍将校で男爵でもあった神尾光臣の次女安子と1909年3月に結婚しました。このとき有島武郎は33歳、安子は22歳でした。その後3人の子宝に恵まれますが、安子を結核が襲います。それが原因で、安子とはわずか7年の結婚生活でした。

その後、婦人公論社の編集者であった波多野秋子と出会います。そしてこの出会いが有島武郎の人生を大きく左右することになりました。出会った当初は作家と編集者という関係でしたが、2人の間柄はいつしかそれ以上の親密なものとなりました。

やがて、秋子の夫であり実業家であった波多野春房に関係を疑われるようになります。実業家であった春房は、有島武郎に対し金銭を要求し脅しをかけましたが、それには一向にしたがわずに、自身の信念を貫き通します。行き場の無くなった有島武郎と秋子は、2人で軽井沢にある別荘・浄月庵へと向かい、その応接間で心中することとなりました。6月9日に死去しましたが、発見されたのが1ヶ月後であったため、遺体の損傷が激しかったと言われています。有島武郎、享年45歳、秋子32歳でした。

エピソード

新渡戸稲造との逸話が残っています。
札幌農学校で新渡戸稲造から「君の好きな学科は何か?」と問われたとき、有島武郎は「文学と歴史です」と答え、新渡戸が大笑いしたそうです。農業を学びに来ているのに、「文学と歴史」と答えたところが、新渡戸にとって滑稽だったのかもしれません。

まとめ

いかがでしたか?今回は有島武郎の人生についてご紹介しました。45歳という若さで、愛のために心中したと聞くと驚いてしまいますね。有島武郎はその生涯を通して、「愛と苦悩」の間で悩み、葛藤してきたように感じます。有島武郎が自身の葛藤をどのように捉え、そして克服しようとしたのか、彼の作品を読んで考えてみはいかがでしょうか?

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