織田作之助ってどんな人?その生涯は?性格を物語るエピソードや死因は?

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織田作之助という人をご存知ですか?織田作之助は大正時代に生まれ、昭和初期に活躍した作家です。大阪に生まれ、大阪庶民の日常を描いたその作風は、今もなお多くの読者に愛されています。また、太宰治や坂口安吾などと交流を深め「無頼派」の代表的存在としても知られています。今回はそんな織田作之助の生涯についてご紹介します。

織田作之助の生涯

織田作之助は、1913年(大正2)年、大阪市南区(現・天王寺区)で仕出し屋「魚春」を営む父・鶴吉と母・たかゑの長男として生まれました。作之助が生まれたとき、鶴吉とたかゑは籍を入れていなかったため、しばらくの間は母の兄の鈴木姓を名乗っていました。作之助が13歳のときにようやく両親が籍を入れたため、それ以降、織田姓を名乗るようになりました。

尋常小学校、高等中学校に進学した作之助は、第三高等学校(京都大学教養学部の前身)に入学します。作之助は子供の頃から勉強がとても良くできたらしく、周囲からは「天才」と呼ばれていました。その証拠に、第三高校に入学の際には「入学式に小学校の生徒総出で見送らせて欲しい」という申し出もあったほどでした。作之助にはタツという姉がおり、タツとその夫の竹中国次郎は、第三高等学校に通うための学費を全額援助し、経済面において作之助を支えました。

そんな作之助でしたが、1934年(昭和9)卒業試験中に喀血(かっけつ)し療養を余儀なくされ、この頃から作之助は病に苦しむようになります。療養を終えて復学しますが、すっかり学問への意欲を失い学校を退学することになった作之助は、劇作家を目指すようになります。また在学中に知り合った宮田一枝と同棲し、後に結婚しています。

劇作家としていくつか作品を発表しましたが、「赤と黒」で有名なフランスの作家スタンダールに影響を受けた作之助は、次第に小説家を志すようになります。その後、青山光二らと共に同人誌「海風」を創刊し、1938年(昭和13)に発表した作品「雨」が武田麟太郎の目に留まり注目を集めました。

1939年(昭和14)、大阪に帰省し姉夫婦の元にしばらく滞在した作之助は、作家活動と同時に新聞社で働くなどして生計を立てていました。そして1940年(昭和14)に書いた「夫婦善哉」が改造社の第1回文芸推薦作品に選出され、作之助は本格的に作家の道を歩み始めます。さらにこの年の9月に発表した「俗臭」が室生犀星に評価され、翌年の芥川賞の候補作になりました。さらに1941年(昭和15)に書いた「動物集」が正宗白鳥(まさむね・はくちょう)に賞賛され、以降、作之助は歴史小説など意欲的に作品を生み出すようになります。

まもなく日本は太平洋戦争に突入しますが、作之助は執筆活動を続けます。この時期に書いた「青春の逆説」は残念ながら当局により発禁となりましたが、太宰治や坂口安吾などと交流を深め、いつしか作之助は「無頼派の作家」として世間に知られ「オダサク」の愛称で親しまれるようになりました。

しかし終戦間際の1944年(昭和19)、最愛の妻・一枝を癌で亡くすという辛い出来事が起きます。このとき一枝はまだ31歳の若さでした。2年後の1946年にオペラ歌手の笹田和子と再婚しますが、クリスチャンの家系だった生活に馴染めず、間もなく家を飛び出してしまいます。

笹田家を飛び出した作之助ですが、以前から患っていた結核が進行しており、この年の12月に大量の喀血をします。病院に運ばれ治療を受けましたが、翌年の1月に亡くなりました。享年33。

性格を物語るエピソードは?

織田作之助はとても愛妻家だったことで知られています。癌によって若くして亡くなった最初の妻・一枝の写真1枚と遺髪(いはつ)を最後まで肌身離さず持っていたそうです。

また大のカレー好きだったようで、大阪にあるカレー屋「自由軒」に毎日のように通っていました。作之助は自由軒に来ては隅の席に座り、カレー(当時はライスカレー)を食べ、小説の構想を練ったり、執筆していたそうです。自由軒の本店には、今でも織田作之助の当時の写真が飾られています。

死因について

以前から結核に苦しんでいた作之助は、晩年、自分の死を悟ったかのように猛烈に執筆活動に集中していました。執筆のために当時は薬局でも購入できた、ヒロポンという薬物を打ちながら書いたそうです。そんな作之助ですが、1946年(昭和21)12月、大量に喀血(かっけつ)し東京病院(現・東京慈恵医大付属病院)に運ばれます。入院し療養に努めますが状態は徐々に悪化し、翌年1947年(昭和22)1月10日に亡くなりました。享年33歳というあまりにも短い人生でした。東京でのお通夜ののち、故郷の大阪でもお通夜が行われました。読売新聞に連載中だった「土曜夫人」は未完となっています。

まとめ

今回は織田作之助の生涯についてご紹介しました。惜しいことに33歳という若さでこの世を去りましたが、その作品や生き方は多くの人から共感を得るのではないかと思います。
短い人生ながらも短編小説や戯曲など多くの作品を残していますので、青空文庫などで読んでみてはいかがでしょうか。

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