泉鏡花ってどんな人?その生涯や性格は?家族は?性格を物語るエピソードや死因は?

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泉鏡花は、明治後期~昭和初期にかけて活躍した、幻想文学の先駆者と言われる人物です。江戸文芸の影響を受けた怪奇趣味と特有のロマンティシズムを持ち、小説・戯曲・俳句などさまざまな作品を残しました。尾崎紅葉に師事し、明治後期に流行した観念小説『夜行巡査』や『外科室』で評価を得て、怪奇的な作品『高野聖』で人気作家になりました。泉鏡花の人生はどのようなものだったのでしょうか?エピソードを交えてご紹介します。

泉鏡花の生涯

それでは、泉鏡花の生涯をみていきましょう。

誕生から上京まで

泉鏡花は1873年(明治6年)、石川県金沢で生まれました。本名は泉鏡太郎といい、父は象眼細工師・彫金師で、母は江戸葛野流、大鼓家の中田氏の娘で、叔父の松本金太郎は宝生流のシテ方として有名な能楽師であり、従兄弟も能の名人という、工芸と芸術に造詣の深い家系でした。このことは泉鏡花の文学のエッセンスにもなっています。

1882年(明治15年)泉鏡花が9歳のとき、母が亡くなり心に深い傷をうけます。
その後金沢の高等小学校へ入学し、のち北陸英和学校に転校し英語を学ぶものの退学します。市内の私塾で英語などを講じましたが、やがて文学書に親しむようになり、尾崎紅葉の作品に感嘆したといいます。

上京から人気作家になるまで

1890年、17歳のときに尾崎紅葉に会うべく、鏡花は上京します。牛込横寺町の紅葉宅へ入門し書生として原稿の整理や雑用などをして暮らしました。

1893年、京都の『日出新聞』に、神奈川県の農民暴動である真土事件を素材とした『冠弥左衛門』を尾崎紅葉のサポートをうけながら連載します。脚気療養のため一時帰郷し、京都や北陸経由で戻る際の紀行をもとに『他人の妻』を執筆します。

1894年、鏡花21歳のとき、父が死去したため金沢へ戻りますが、祖母や弟を抱え生活苦に陥ります。文筆業で生計を立てることを決意した鏡花は『義血侠血』の読売新聞掲載や実用書の編纂なども行いました。

1895年には初期の傑作である観念小説『夜行巡査』と『外科室』を当時最大の文芸誌『文芸倶楽部』に発表し、新進作家として脚光を浴びます。この後も鏡花は毎年次々に新作を発表していき『海城発電』、『照葉狂言』、『化鳥』、『湯島詣』、『高野聖』、『起請文』など数々の名作を発表し、師匠を超えるほどの人気作家となっていきます。一方、お酒の味を覚え飲み歩くことも多かった時期でした。

すずとの出会いと師匠との別れ

1902年に胃腸病をわずらい逗子で静養中に手伝いに来ていた芸妓の伊藤すずと恋仲になり、翌年神楽坂に転居し同棲します。しかし尾崎紅葉に別離させられ、表立った交際はできなくなりました。数ヶ月後、尾崎紅葉が急逝してしまい、鏡花にとって大きな衝撃となります。

1905年には祖母も死去し、胃腸病も悪化したため逗子に転居しますが、執筆活動は続き、能楽や江戸文学の要素も混ざった、夢幻性の高い『草迷宮』や『春昼』、風俗性の濃い『婦系図』、『白鷺』などが世に出されました。また永井荷風にも好感を持たれ、三田文学に『三味線堀』を掲載します。このころ麹町に転居しました。

大正時代にはいり、『夜叉ヶ池』や『天守物語』といった戯曲の世界を描き、『日本橋』は、装画の小村雪岱とのコンビの初作品となりました。1915年からも『夕顔』、『鏡花選集』を発表したり、『天守物語』や『由縁の女』を『婦人画報』に連載したりと活躍しました。また1920年には映画に興味を持ち、谷崎潤一郎や芥川龍之介と知り合います。

1923年の関東大震災では被災し、すずと2日間公園ですごしたといいます。1924年には『眉かくしの霊』を「苦楽」という大衆雑誌に連載しました。

晩年

1927年、52歳になった鏡花は、すずと入籍します。さらに弟子である里見弴、谷崎潤一郎、水上瀧太郎、久保田万太郎、芥川龍之介、小山内薫が編集委員をつとめ『鏡花全集』が完成しました。また鏡花を囲む会である「九九九会」が里見と水上を発起人として結成され、毎月集まりがありました。「九九九会」とは、会費の10円を出すと1円おつりを出すという意味だそうです。

1937年に大作『薄紅梅』を東京日日新聞、大阪毎日新聞に連載し、『雪柳』を「中央公論」に発表します。さらに帝国芸術院会員に任ぜられる名誉もうけます。
しかし次第に体調を崩すようになり、1939年の7月に最後の作品『縷紅新草』を中央公論に発表します。7月下旬には床に臥し、9月7日癌性肺腫瘍のため65歳で逝去しました。1940年には、岩波書店より鏡花全集が刊行されました。

泉鏡花の妻すず

鏡花が愛した妻、伊藤ずずは元・芸妓で神楽坂にて桃太郎という名で働いていました。尾崎紅葉はふたりの関係を絶対に許さず「女を捨てるか、師匠を捨てるか」と迫ったほどであったといいます。このときの泣く泣く離別した経験が、『婦系図』の内容に生かされています。ふたりが結婚したのは、鏡花が52歳のころでしたが、夫婦仲がよく互いの名前入りの腕輪を肌身離さずつけていたそうです。

性格がわかるエピソード

尾崎紅葉の門下生のころ

書生時代に石橋忍月のところにお使いに行った際にもらった柿を、紅葉のものとは知らずに食べてしまったという話や、大福餅を買ってくるように言われたものの、菓子屋に大福を売っていると知らなかった鏡花は、ざわざ遠くの露店へ行って安い大福を買って帰り、師匠に笑われたという話が残っています。

潔癖症

泉鏡花は過度の潔癖症でした。例えば、生ものは食べないので、菓子をアルコールランプであぶったり、酒は煮立たせて飲んだりしました。
お辞儀をするときも、手を畳につけるのは汚いと、手の甲を畳につけたり、キセルの吸い口が汚れないように妻が作ったキセルキャップを愛用したりと、潔癖症エピソードが数多く残っています。

まとめ

今回は泉鏡花の人生をご紹介しました。鏡花は芸術・芸能の家庭にうまれ、幼い頃の母の死別を抱えながらも、尾崎紅葉という師匠や愛妻すず、里見弴などの後輩にめぐまれ、毎年素晴らしい作品を発表し続けてきました。作品には、幻想・怪奇的なものだけでなく、社会への問いや、母への想いなどさまざまな要素と芸術や芸能が絡み合っていることがわかります。数多くの作品がありますが、まずは『高野聖』などの有名作品から読んでみてはいかがでしょうか?

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