アレクサンドル・デュマ・ペールってどんな人?その生涯は?性格を物語るエピソードや死因は?

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“Un pour tous, tous pour un”

「一人はみんなのために、みんなは一人のために」という言葉をご存じの方は多いでしょう。今日ではドラマやスポーツで耳にするこの言葉、実はあるフランス人作家が初めて世に出した言葉でした。名前はアレクサンドル・デュマ。彼はこの台詞が生まれた『三銃士』や、『モンテ・クリスト伯』など19世紀を代表する名作をはじめ、250篇もの小説を世に送り出した作家で、同時に著名な劇作家でもありました。今回は、激動の人生を送ったフランスの文豪、アレクサンドル・デュマ・ペールをご紹介します。

アレクサンドル・デュマ・ペールの生涯

ここでは、デュマの送った生涯を見ていきましょう。

異色の生い立ちと演劇への情熱

デュマは1802年7月24日、北フランスにある現在のエーヌ県で生まれました。祖母を黒人奴隷に持つ異色の出自です。父はナポレオンとともに戦った将軍でしたが、デュマが生まれてから4年後に亡くなります。将軍であった父は、ナポレオンのエジプト遠征を「ナポレオンの独善」と批判したために将軍としての立場を失い、結果としてデュマと彼の母は貧しい暮らしを送るのでした。

幼少のデュマはグレゴワール神父の開く私塾に通っていましたが、あまり教会で教えられるラテン語や教義には関心を持たず、友人のアドルフに影響されて演劇を志します。習字が得意だったので公証人となり真面目に働く傍ら、17歳の頃に見た『ハムレット』に感激し、足しげく劇場に通ってメモを取りました。22歳の頃、当時のアパートの上に住んでいた縫製師カトリーヌ・ラべーと子をもうけ、この時の私生児がのちの『椿姫』を著す小説家、アレクサンドル・デュマ・フィス(フィスは息子の意)となります。

27歳のころ、コメディ・フランセーズの王室代表委員、テイラー男爵と知り合います。彼の演劇の才能をすぐさま見抜いたテイラーは、彼の書いた演劇『クリスチーヌ』を上演させることを計画しました。デュマは友人が多いのですが、デュマはかなりチャラく人懐っこいところがあったようです。そのため物おじせず、交友関係を広げるのが得意でした。

結果として上演は延期になりましたが、彼の才能は次作『アンリ三世とその宮廷』でフランスに劇作家の新星が登場したことを告げました。当時の韻文が主流であったフランスで登場したこの作品は、散文で書かれたロマン派演劇で、デュマは続けていくつもの演劇を成功させました。さらにその後に上演された、デュマ自身の不倫体験をもとに執筆した『アントニー』は、異色の現代劇として社会現象を起こすほどの大ヒットになりました。

小説家「アレクサンドル・デュマ」

数多くの演劇で成功を収めたデュマは、新たに小説へ筆を乗せていきます。当時のフランスでは、『ラ・プレス』紙や『ラ・シエクル』紙などの新聞が、新しいメディアとして登場していました。初めはコラムに社説や歴史考察などを載せていましたが、1838年の『水先案内人』をはじめに多くの新聞社と連載小説の契約を勝ち取ります。

あまりに多くの契約を交わしていたこと、出自に黒人の血が混ざっていたことから「小説工場」と呼ばれてもいたようです。このときにデュマの代表作である『三銃士』『モンテ・クリスト伯』などがのちに出版され、デュマは名声を揺るがないものにしました。特に『モンテ・クリスト伯』は、当時すでにデビューしていたヴィクトル・ユゴーから絶賛を受けるほどの大傑作でした。

デュマの終幕

しかし1848年2月24日、国王ルイ=フィリップを退位させる二月革命がフランス全土を揺るがします。同年の11月には、ナポレオン・ボナパルトが大統領として新政権を握り、対抗馬を応援したデュマは当時建設していた歴史劇場の閉鎖など、憂き目にあいます。

失意のうちにベルギーに亡命し、その後はナポレオンから逃れました。さらに悪いことに、デュマは小説でヒットが出せなくなってしまったのです。それでも筆を手放さずにヨーロッパを美食のためにめぐり、『美食大辞典』なる本を書こうとしていました。

そしてデュマは、晩年は脳卒中を患い、北フランスのノルマンディー郊外、ピュイにある小デュマの別荘で過ごしました。1870年12月5日に、デュマは68歳で息を引き取りました。生前にかなわなかった『美食大辞典』は彼の死後まもなく出版され、彼の多才さは死後も人々を驚かせました。

性格を物語るエピソード

デュマは多才な人間でしたが、その変人っぷりもよく知られています。あげれば枚挙にいとまがないため、今回は少しだけご紹介しましょう。

人間喜劇

デュマが劇作家であったことになぞらえて、彼の人生を「人間喜劇」ということもあります。デュマは初めて関係を持ったカトリーヌ・ラべーばかりでなく自身の作品をモチーフにした城を建て、そこで多くの女性と関係を持ちました。小デュマだけでなく幾人もの私生児をもうけたことも確認されています。

小説を連載しているころはそのこだわりで以て連載を打ち切り訴訟沙汰になったこともあり、決して善良だったとは言えず、どちらかといえばクズっぽいところもあります。小デュマが生まれた際も私生児だったこともあって7年間の間認知せずにいたこともあったようです。

しかしそれでも、デュマは現在も19世紀フランス文学を代表する作家のひとりとしてヴィクトル・ユゴーらと並んで評価されています。デュマの作品は、彼の持つ人間の俗っぽさ、浅ましさがキャラクターに親近感を与え、躍動させています。さらに劇作家出身らしい美しくウィットに富んだ表現であったり、どこかオーバーな言葉回しがされたりする中には、現代小説とは違った魅力があります。

死因は?

死因については詳しいことはわかっていません。晩年は脳卒中を患ったものの、それが直接的な死因だったのか、それとも好奇心の向かう先を旅行ができないことで失ってしまったためなのか、考察の余地が残されています。

まとめ

今回は、アレクサンドル・デュマについて解説していきました。デュマの作品はまるで映画のような緊張と臨場感を与えます。読んだ後は思わずため息が出るドラマの連続です。デュマの作品をまだ読んだことがない方はこの機会に一冊読んでみてはいかがでしょうか。

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