大岡昇平ってどんな人?その生涯や妻・子供は?性格を物語るエピソードや死因は?

出典:[amazon]成城だよりIII (中公文庫)

大岡昇平という作家をご存じですか?大岡昇平は明治に生まれ、昭和の文壇で活躍した近代日本文学を代表する人物の一人です。戦時中にアメリカ軍の捕虜となったときの体験談を元に書いた「俘虜記」で注目を集め、以降「野火」や「レイテ戦記」など多くの作品を発表しました。そこで今回は、激動の時代を生きた大岡昇平の生涯をご紹介します。

大岡昇平の生涯

大岡昇平(以下大岡)は、1909年(明治42)、父・貞三郎と母・つるの長男として東京市牛込区(現新宿区)に生まれます。幼い頃は父の仕事の都合で転居を繰り返し、大岡本人の記憶によると「東京近辺を7回」転居したそうです。子供の頃から読書好きだった大岡は、従兄弟の勧めで、1919年(大正8)に雑誌「赤い鳥」に作品を投稿します。これがなんと入選し、詩人の北原白秋から「音楽的で面白い」という評価を得ました。このことがきっかけとなり、大岡は熱心に作品を投稿するようになりました。

1921年(大正10)、青山学院中学部に入学し、この頃は芥川龍之介や哲学者の西田幾太郎の作品を読んでいたそうです。このことから考えると、大岡はかなりの早熟だったことがわかります。また学校在籍中にキリスト教に感化され、将来は牧師になろうと決めますが、父親の反対により断念しています。

1926年(大正15)、成城高校へ進学した大岡はフランス文学に目覚め、翌年1927年(昭和2)にアテネ・フランセでフランス語を学び始めます。その後、知人の紹介で評論家の小林秀雄と知り合い、フランス語の個人授業を受けたそうです(小林秀雄とは長きに渡り交友関係が続きます)。そして小林秀雄の紹介により、詩人の中原中也と知り合い会うことになります。

1929年(昭和4)に京都帝国大学(現京都大学)の国文学科に進学した大岡は、河上徹太郎や中原中也とともに雑誌「白痴群」を刊行するなど、この頃から文芸活動を開始します。また大学在学中はスタンダールなどのフランス文学に熱中し、国文学科にもかかわらず卒業論文はアンドレ・ジッドの「贋金つかい(つくり)」だったそうです。

大学卒業後は、国民新聞社(現東京新聞の前身)に入社しますが、翌年に退社。1938年(昭和13)から帝国酸素(現日本エア・リキード)へ翻訳係として入社します。翻訳係として会社勤めをするかたわら、1939年(昭和14)に「スタンダアル」を刊行し、スタンダール研究者としても活動します。

やがて太平洋戦争の足音が近づくと、1944年(昭和9)、大岡も教育招集として戦争に参加することになりました。場所はフィリピンのマニラだったそうで、現地では暗号手として活動しました。1945年(昭和20)、マラリアで昏睡状態になったところをアメリカ兵に見つかり、一時期捕虜となりました。その後レイテ島の俘虜(ふりょ)病院へ入り、この体験がのちに「俘虜記」として発表されます。

1945年12月に日本へ帰国した大岡は、疎開先の兵庫へ向かい執筆活動を開始します。その後1947年(昭和22)からはフランス映画輸出組合の文芸部長に就任し、字幕翻訳を手がけていたそうです。執筆活動としては1949年(昭和24)に「俘虜記」を発表し、横光利一賞を受賞。大岡の名前が文壇で大きく注目されるようになりました。

一躍文壇に認められるようになった大岡は、1952年(昭和27)に代表作「野火」を発表。この作品も評価され、読売文学賞を受賞しています。その後も、1961年(昭和36)に「花影」で毎日出版文化賞及び新潮社文学賞を受賞。1971年(昭和46年)に「レイテ戦記」を刊行し、翌年に毎日芸術賞を受賞し、1974年(昭和49)には「中原中也」で野間文芸賞を受賞するなど、戦後の文壇でも稀に見る活躍をします。晩年は世田谷区祖師谷に移住し、多くの作品を残しました。

妻や子供について

大岡昇平の妻についての情報は見つかりませんでしたが、娘の長田鞆絵(ともえ)はのちに童話作家・児童文学者として活躍しています。短大を出て出版社に就職したあと、明治学院大学の大学院に進学し、「もじもじびすけっと」や「さんぽみちのおきゃくさま」などの児童文学を残しています(2022年現在もご存命です)。

性格を物語るエピソードは?

「けんか大岡」と呼ばれるほど、多くの論争を繰り広げた大岡昇平。
主な論争相手は、
・井上靖
・海音寺潮五郎(かいおんじ・ちょうごろう)
・松本清張
・篠田一士(しのだ・はじめ)
・江藤淳
などがいました。もちろんどんな人物とも論争したのではなく、論争の焦点の多くは「歴史認識について」だったようです。

また、多趣味で知られていた大岡昇平は50歳からゴルフを始め、「アマチュアゴルフ」というゴルフ解説書も執筆するほどのめりこんでいました。その他、囲碁や漫画、ロックなども好んで聞いたそうで、ここから大岡昇平という文学者の意外な一面をみることができます。

死因について

大岡昇平は、1988年(昭和63)、順天堂大学医学部付属病院にて脳梗塞のため亡くなりました。享年79歳。遺族の意向で葬儀と告別式は行われなかったようです。死後1989年(平成元年)に「小説家夏目漱石」で読売文学賞を受賞しています。文壇に登場した時期はそれほど早くはありませんが、戦後文学者として大家昇平はもっとも活躍した人物の一人でした。

まとめ

今回は大岡昇平の生涯についてご紹介しました。戦争を生き抜いた大岡昇平は、まさに戦争の生き証人的作家といえるのではないでしょうか。大岡昇平の作品は、戦争をテーマにしたものが多いですが、その他にも推理小説や歴史小説なども執筆していますので、ぜひお好みの作品を読んでみてはいかがでしょうか。

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