横光利一ってどんな人?その生涯は?性格を物語るエピソードや死因は?

出典:[amazon]横光利一 名作全集: 日本文学作品全集(電子版) (横光利一文学研究会)

横光利一は「雪国」などの作品で有名な川端康成とともに「新感覚派」を代表する作家です。「蠅」や「機械」などの作品で知られ、今でも多くの読者に愛されています。その作品は常に実験的で、日本の文学界に大きな影響をもたらしました。菊池寛に師事したことで人生が広がり、数々の名作を残した横光利一とはどのような人物なのでしょうか。今回は横光利一の生涯をご紹介します。

横光利一の生涯

川端康成らとともに、新時代を築き上げた横光利一はどのような人生を送ったのでしょうか。生い立ちから晩年までをご紹介します。

幼少期から大学まで

横光利一は1898年(明治31年)、福島県会津群に生まれます。父は鉄道の設計技師で、とても優秀だったそうです。父の仕事の影響で、横光一家は千葉や東京、山梨など各地に移り住みます。1906年(明治39年)、父が軍事鉄道建設のために朝鮮に行くことになり、一家は母方の故郷の三重に移住することになりました。

横光はそのまま三重の中学校に通い、1913年(大正13年)になると、15歳で親元を離れ一人暮らしを始めます。子供の頃から本が大好きな少年だった一方、水泳や陸上競技、柔道など運動も得意で文武両道だったと言われています。この頃は志賀直哉や夏目漱石、ドストエフスキーを愛読し、なかでもドストエフスキーの「死の家の記録」に強い影響を受けたそうです。

その後1916年(大正5年)に早稲田大学高等予科に進学しますが、精神的な苦痛となる出来事が相次ぎ、翌年大学を休学します。しかし休学中に書いた「神馬」が当時の文壇の登竜門とされる「文章世界」の佳作に選ばれ、本格的に作家の道を志します(「文章世界」の初代編集長は田山花袋でした)。

その後、早稲田で知り合った詩人の佐藤一英(いちえい)の紹介で菊池寛と知り合い、以降生涯の師と仰ぎます。1921年(大正10年)、学費滞納のため大学を除籍となりますが、この年に菊池寛の紹介で川端康成と出会い、公私ともに交友を深めることになります。

文壇に登場

1922年(大正11年)、仕事で朝鮮に渡っていた父が客死(※1)し、横光は経済的に困窮状態になります。加えて翌年の1923年(大正12年)には関東大震災が発生し、横光は友人宅を転々とする生活を送ったそうです。しかしこの年に菊池寛が「文藝春秋」を創刊したことで、横光の作家人生が大きく動きます。文藝春秋に掲載された「蠅」が好評を博し、横光は新進気鋭の作家の仲間入りをしました。

1924年(大正13年)、川端康成らとともに「文藝時代」を創刊した横光は、新しい感覚表現を主張し「新感覚派」と呼ばれるようになります。横光が書いた「頭ならびに腹」は新感覚派の代表作とされ、今でも多くの論評がなされています。新感覚派の作品はどれも「視覚的」であったため、1926年(昭和元年)には川端康成や岸田國士(くにお)と新感覚映画連盟を設立し、映画制作にも携わりました。

また1928年には、芥川龍之介の勧めで中国の「上海」に1ヶ月ほど滞在します。上海への旅行は、その後の横光のアイデンティティに大きな影響を与えており、のちに初の長編小説「上海」を執筆するきっかけとなりました。

1930年(昭和5年)、工場で働く人々の人間模様を描いた実験的作品「機械」が話題となり、「小説の神様」と評された横光は、文壇での地位が揺るがぬものとなりました。好奇心旺盛な横光は、1936年(昭和11年)に欧州へと旅立ち、ベルリンオリンピックを現地で観戦し、その模様を日本に伝えています。またこの欧州旅行を通じて、岡本太郎と知り合いになりました。

帰国して数年後、太平洋戦争の足音が聞こえてくると菊池寛が発起人となった「文芸銃後運動」に参加し、文学者として愛国主義の立場を表明します。

※1、客死(きゃくし)とは、国外で亡くなることです。

晩年

1945年(昭和20年)戦争が終わり、疎開していた山形から東京へ戻った横光は、依然として仕事に追われていました。またこの時期に、川端康成から三島由紀夫の小説「煙草」を紹介され、当時東京大学の学生だった三島を絶賛しています。

1946年(昭和21年)から、多忙が祟ったのか体調を崩し始めます。生来の医者嫌いだった横光は、この年の6月に血を吐いて倒れてしまいます。これは幸いにも喉の血管が切れたことによるものでしたが、翌年1947年12月30日、急激な腹痛を訴え、その日のうちに急逝してしまいます(詳しくは死因を参照)。享年49歳でした。葬儀には多くの人が参列し、川端康成によって弔辞が読まれました。

性格を物語るエピソードは?

学生時代の次のようなエピソードが残っています。

ほとんど大学に来なかった横光でしたが、たまに授業に出るときでも「長髪を振りながら和服に黒マントを羽織り、颯爽と教室に入ると、教室の中央に座り髪を掻き揚げ、周りを見回した後、目をつむって瞑想(居眠り)を始めた」そうです。不遜な人物として知られる横光の性格がよくわかるエピソードです。

死因は?

亡くなる前年の1946年頃から、精神的・肉体的な不調に悩まされていたようです。一時期は、肺病や脳溢血の疑いがあり、周りからは療養を勧められましたが医者嫌いだった横光はこれを拒否し、お灸や按摩といった民間療法で対処していたそうです。

しかし1947年になると吐血を繰り返すようになり、本格的に体調が悪化します。川端康成が知人の医師に横光の診察を依頼し「レントゲンを撮る」約束をしますが、横光はこの約束を放置します。そしてこの年の12月、「洋燈(ランプ)」の執筆中に猛烈なめまいに襲われ、倒れてしまいました。その後一時的に体調が回復するものの、12月30日、急激な腹痛で苦しみだし、急逝してしまいました。死因は胃潰瘍による急性腹膜炎でした。

まとめ

今回は横光利一の生涯をご紹介しました。49歳という若さでこの世を去った横光でしたが、横光が発表した作品は、その後の日本文壇に大きな影響を与え、今でもさまざまな解釈がなされています。まだ作品を読んだことのない方は「日本のモダニズムの頂点」とまで評された横光作品にぜひ一度触れてみてください。

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