室生犀星ってどんな人?その生涯や家族は?性格を物語るエピソードや死因は?

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室生犀星(むろおさいせい/むろうさいせい)は金沢出身の詩人・小説家です。誰もが知る大文豪、といった存在ではありませんが、「ふるさとは遠きにありて……」ではじまる「小景異情 その二」という詩を聞いたことがある方は多いのではないでしょうか。
室生犀星は不遇な幼少期を過ごしながらも、家族や友人、小さな生き物たちに対し、あふれんばかりの愛を注いだ作品を多く残しました。今回は、そんな室生犀星の生い立ちや家族、死因などをご紹介します。

室生犀星の生涯とは?

複雑な生い立ち

室生犀星は、1889(明治22)年8月1日、石川県金沢市で生まれました。本名は室生照道(てるみち)といいます。
室生犀星の出自には諸説ありますが、父は加賀藩の足軽頭・小畠弥左衛門吉種、母はその女中・ハルだといわれています。犀星の父が高齢であったこと、正妻ではなく女中との間の私生児であったことから、生まれてすぐに養子に出されました。犀星を養子に迎えたのは赤井ハツという女性で、犀星は7歳までハツの私生児として育てられます。赤井ハツは複数の養子を引き取り、その養育費で生活していました。酒に酔っては子どもたちを口汚く罵り、暴力をふるうハツとの暮らしは、過酷な生育環境だったと言えるでしょう。7歳になった犀星は、ハツの内縁の夫である室生真乗の養子となり、室生の姓を名乗るようになりました。

文学への目覚め

1902(明治35)年、犀星は高等小学校を3年で中退し、金沢地方裁判所の給仕となります。たまたま職場の上司に俳人がいたため、犀星も俳句をたしなむようになり、文学にのめり込んでいきました。その後、葉俳句だけでなく短歌や詩の制作もはじめます。新聞や雑誌に作品が掲載されるようになると、友人たちと文学雑誌を作るようになり、文学への熱は冷めやらぬものとなります。転職を繰り返しながら、やがて上京し、北原白秋や上田敏など、当時の有名詩人たちと知り合いになります。

文壇での成功

最初の上京ののち、帰郷と上京を繰り返しながらも、次第に詩が北原白秋に認められるようになりました。1913(大正2)年、北原白秋主宰の詩集『朱欒』(ざんぼあ)に参加し、生涯の友人・萩原朔太郎と知り合います。同じころ、佐藤春夫や山村暮鳥、恩地孝四郎や高村光太郎など、現在でも知られている芸術家たちとの交流も生まれました。
友人たちと同人誌を創刊したり、詩を投稿したりと熱心に文学活動をおこなっていたものの、なかなか芽がでなかった室生犀星。しかし、1913(大正2)年に「小景異情」を発表すると、一躍時の人となりました。1918(大正7)年には、第一詩集である『愛の詩集』を自費出版し、その序文を北原白秋、跋文を萩原朔太郎が記しています。さらに、1919(大正8)年には『幼年時代』『性に目覚める頃』『或る少女の死まで』といった自伝的小説を発表し、小説家としても歩み始めます。室生犀星は詩・小説ともに認められ、有名作家となったのでした。

その後も、ジャンルを問わず作品を発表し続けた室生犀星。10代で文学に目覚めた頃から、絶筆となった『老いたるえびのうた』まで、数多くの作品を残しました。10代では俳句、20代では『抒情小曲集』などの抒情詩、30歳前後では『幼年時代』に代表される自伝的小説などが有名です。ところが40代も半ばを過ぎるころ、室生犀星はスランプに陥ります。このスランプを打破した作品が、『あにいもうと』をはじめとする「市井鬼もの」と呼ばれる作品群でした。「市井鬼もの」は、これまでの抒情的な作品とは異なり、日常生活に潜む「鬼」、荒々しい人間の本性を描き切った作品として高く評価されました。このほかにも、随筆、短歌、古典小説の現代語訳や王朝もの小説の執筆など、室生犀星は広く活躍しています。

2つの文士村と軽井沢

室生犀星の生涯の後半は、複雑な環境で育った幼年期から打って変わって、穏やかで落ち着いた日々を過ごしていたようです。妻が病に倒れたり、娘が離婚したりと頭を悩ます諸問題はありつつも、文壇での地位があり、友人も多く、一家の良き父として生涯をおくりました。
上京直後の犀星は引っ越しを繰り返していましたが、東京での住まいとして有名なのが、田端文士村と馬込文士村です。田端文士村では友人・芥川龍之介とともに、文士村での中心的な役割を担いました。関東大震災後に転居した馬込文士村には長く住み、犀星の死後も、朝子をはじめとする家族が暮らしていました。また、犀星は1931(昭和6)年に軽井沢に別荘を購入し、避暑だけでなく第二次世界大戦中の疎開先としても活用しています。軽井沢でも、堀辰雄や立原道造、福永武彦など、友人たちとの交流を楽しんでいたそうです。

室生犀星の家族は?

『抒情小曲集』を発表したころ、私生活では同郷の女性・浅川とみ子と結婚し、2男1女に恵まれました。
長男・豹太郎は生後1年で夭折し、その深い悲しみは『忘春詩集』『童子』といった作品に表されています。

室生朝子(1923~2002)

室生犀星の娘。『杏っ子』の主人公・杏子のモデルとなりました。
随筆家として活躍し、父との思い出を描いた作品を多数発表しました。

室生洲々子

室生犀星の次男・朝己の娘。室生犀星の孫にあたります。
朝己が早くに亡くなったため、朝子の養女となりました。2022年現在、金沢にある室生犀星記念館の館長を務めています。

室生犀星の性格を物語るエピソードは?


小さな生き物を愛し、女性に憧れ、友人との交流を大切にしていた室生犀星。その性格を物語るエピソードをご紹介します。

猫と一緒に火鉢にあたる

室生犀星の写真は多く残されていますが、中でも有名なものが、猫と一緒に火鉢にあたっている写真ではないでしょうか。猫の名前はジイノ。室生家の飼い猫でした。両手を火鉢にあて、うっとりとした表情のジイノもかわいいのですが、そのジイノを見守る犀星の優しい表情も見逃せません。犀星はジイノが火傷しないよう、火鉢の火加減を調整していたのだそうです。小さな生き物が好きだった犀星は、ジイノだけでなく、多くの犬や猫、鈴虫などをかわいがっていました。

夜の隅田川は羊羹のように流れている

とにかく甘味が好きで、とくに羊羹には目がなかった室生犀星。友人に羊羹をねだるハガキや、送られてきた羊羹に対するお礼状などが多く残っているのだそうです。また、室生犀星と親しく交流していた芥川龍之介は、『都会で』という小品のなかで、詩人S・Mが夜の隅田川を表現した「羊羹のやうに流れてゐる」という言葉を紹介しています。この詩人S・Mは室生犀星のことだといわれており、その羊羹好きがうかがえます。

室生犀星の死因は?

室生犀星は1962(昭和37)年3月26日、肺がんのため虎の門病院で亡くなります。72年の生涯でした。若くして故郷を離れ、その生涯の多くを東京で過ごした犀星でしたが、現在は故郷・金沢の野田山墓地に眠っています。

参考文献
・福永武彦『意中の文士たち(下) 辰雄・朔太郎・犀星』講談社
・室生犀星『あにいもうと・詩人の別れ』講談社
・富岡多恵子『室生犀星』講談社

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