マクシム・ゴーリキーってどんな人?その生涯は?性格を物語るエピソードや死因は?

出典:[amazon]ゴーリキーは存在したのか?

「どん底」の作品でよく知られているマクシム・ゴーリキー(1868-1936)はロシア帝国及びソ連の文豪です。

ゴーリキーの名は、インパクトのある作品名から知られることが多いですが、ゴーリキーがどんな人生を歩んだのかまで知っている人はほとんどいないでしょう。そもそも、ゴーリキーという名前もペンネームだとご存知でしたか。

今回は、マクシム・ゴーリキーとはどういう人物だったのか、性格やちょっとしたエピソードなども交えてご紹介していきます。

マクシム・ゴーリキーの生涯について


マクシム・ゴーリキーはトルストイやプーシキンのように貴族の家柄出身というわけでもなく、高等な教育を受けたわけでもありませんでした。
むしろ、極貧の中で成長し、ありとあらゆる職業に就いて日銭を稼ぎ、逞しく生きてきた人物なのです。

極貧の中での暮らし

ゴーリキーは1866年、ヴォルガ沿岸の商業郡ニージニィ・イーヴゴロド(現ゴーリキー市)に生まれました。父は貧しい指物師兼家具職人で、母は染物店主の娘でした。

因みにゴーリキーというのはペンネームです。「マクシム・ゴーリキー」とは「最大の苦しみ」という意味ですが、マクシムという名は父の名前から取ったとも言われています。
ゴーリキー本人の名前は、アレクセイ・マクシーモヴィチ・ペシューコフといいますが、ここではややこしいのでゴーリキーとします。

ゴーリキーは父を4歳の時にコレラで亡くします。未亡人となった母と共に母の実家に引き取られますが、まもなく母は再婚し実家を出て行ってしまいます。残されたゴーリキーは読み書きを祖父から、話し上手な祖母から沢山のお話を聞き、色々なことを学んでいきました。

8歳で小学校に入学しますが、9歳の時に実の母が死去し、さらに祖父の会社も倒産するといった悲劇が重なり、小学校を中退することになります。
小学校を辞めたゴーリキーは最下層の子たちと共に屑拾いをして日銭を稼ぎ、その日暮らしをして過ごしました。

その後数年間、店先の小僧、汽船の皿洗い、聖像画像の仕事場の徒弟、役者、漁師、踏切番、弁護士の書記、靴磨きといった様々な職業を渡り歩き、生活を営みました。
どんな職業に就いても読書だけは欠かさず行い、本から様々なことを学んでいきました。

カザン時代

16歳になったゴーリキーは大学入学を目指しカザンに赴きますが、目標を果たすことはできず、代わりに菓子工場に就職します。

カザンで働き始めてまもなく、革命的サークルと接する機会が訪れます。
ナロードニキ的な気分を持て余していたゴーリキーは、早速革命的な学生グループとコンタクトを持ち、彼らが主催する研究会に頻繁に出席しました。
そしてマルクスの「資本論」などを学びました。

しかし、現実と理想のギャップの差に精神的なダメージを受けたゴーリキーは夢と現実の乖離に苦しみ、19歳でついに自殺未遂を引き起こします。幸い、弾は急所を逸れ、怪我だけで済みました。

それから2年後、より進歩的な思想を持つ人物と接触したというだけで検挙されます。
同時期に文豪のコロレンコと知り合い、執筆指導を受けることにもなります。

作家として

23歳の頃に、ゴーリキーは南ロシアを歩いて旅しました。
チフリスでは人民の意志派の革命家カリュージヌイと知り合います。ゴーリキーの文才を見抜いたカリュージヌイはゴーリキーに文筆を執ることをすすめます。

これがきっかけで、ゴーリキーは翌年に処女作である「マカール・チュードラ」をマクシム・ゴーリキーの名で発表し、好評を博します。そこから数年は、多くの詩や短編小説を書いて過ごしました。

文豪との交流

ロシア文学界に彗星のごとく現れたゴーリキーは、文豪たちの関心を呼びました。特にチェーホフはほぼ同世代のゴーリキーのことを目にかけており、チェーホフが死去する1904年までゴーリキーに助言と叱責、賛辞と批判を送り続けました。

チェーホフはゴーリキーのことを大変大事にしていたので、ゴーリキーが学士院名誉会員に選ばれたものの、ニコライ2世の反対によって資格を剥奪された事件では、既に会員であったチェーホフが会員を辞退する騒ぎに発展しました。

ゴーリキーは、トルストイとも親交を持ちました。
トルストイの文学に感銘を受けていた青年は、トルストイの別荘に遊びにも行っています。

レーニンとの出会い

ロシア文学界に名を馳せたゴーリキーは、革命の足音が日増しに強くなっていく中で、革命的な活動にも積極的に関わるようになります。

1905年に起きた血の日曜日事件では、再び逮捕され、投獄までされました。
しかし、既に有名になっていたゴーリキーは、ロシア国内から釈放する声が上がったばかりか、海外からもゴーリキー解放運動が巻き上がったため、ゴーリキーは割とすぐに釈放されました。

釈放されたゴーリキーはアメリカへと亡命しますが、実はこれはレーニンのスパイとしてアメリカに潜入するためだったとも言われています。

実はかねてよりゴーリキーはレーニンと深い親交を温めており、レーニンを強く支持していたのです。
そのため、文学者として文章で革命を後押しすることはもちろん、その他の点でも協力できることは最大限に行っていたのです。

レーニンも盲目的に、献身的に自分をサポートしてくれるゴーリキーが可愛かったのでしょう、極秘情報や機密事項などもゴーリキーとは共有していたそうです。

1907年には、レーニンによってゴーリキーは客員として社会民主労働党のロンドン大会に召喚されています。

ソ連の文学者として

ゴーリキーは1911年にニコライ帝の大赦によって国に帰ることができました。
それから6年後にはソビエト政権が樹立しますが、ゴーリキー本人は肺結核を悪化させ療養が必要となります。

イタリアで療養生活をしつつ、執筆と後進の指導にあたりました。

1928年にはスターリンに呼び戻される形でソ連に帰国しました。
ソ連における文学の発展を一任されたゴーリキーは作家同盟を結成し、指導にあたりました。

毒殺

文筆生活40年を1932年に祝ったゴーリキーでしたが、この頃からゴーリキーの周辺では暗殺の影が迫っていました。

キーロフの暗殺から始まり、息子も暗殺されたゴーリキーは、自宅に軟禁状態であったにも関わらず、1936年に享年68歳でこの世を去りました。

寿命で死んだという人もいますが、毒殺説がいまのところかなり有力だと言われています。

ゴーリキーと女性


ゴーリキーは実は生涯に3人の女性を妻に迎えました。

最初の奥さんエカテリーナ・ペシュコバとは28歳の時に結婚し、7年間生活を共にしました。エカテリーナも革命派で熱心に活動に参加していたようです。

続いての奥さんは1903年に結婚したマリア・アンドレーヴァです。アリアとは最も長い16年の月日を共に過ごしました。
マリアは革命家ではなく役者でしたが、ゴーリキーの考えをよく理解した人物だったようです。

最後の奥さんはマリア・ブドゥベルグといい、1920年に結婚し、7年~10年(諸説あり)生活を共にしました。彼女もやはり革命家としての一面があったのですが、ゴーリキーの死は彼女によってもたらされたとも言われています。

まとめ

高等教育以前に小学校レベルの勉学もしっかり教わっていなかったゴーリキーがここまで文豪としての地位を築けたのは、ひとえに彼の才能によるものでしょう。

早くに両親を亡くし、どん底での暮らしを余儀なくされたゴーリキーが、より良い社会、特に労働者階級にとっての良い社会実現を目指して盲目的に献身していたことがよくわかります。

ゴーリキーのこうした背景を知った上で読むゴーリキー作品は、また一味も二味も変わってくることでしょう。

気になった方はぜひゴーリキーの作品を読んでみてください。

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