国木田独歩ってどんな人?その生涯は?性格を物語るエピソードや死因は?

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国木田独歩という文豪をご存知ですか?独特な名前ですので聞いたことがある人も多いでしょう。国木田独歩は、明治時代を生きた作家で、小説家の他にもジャーナリスト、詩人、編集者として活躍し、自然主義文学の先駆けといわれました。しかし独歩の作品の評価が高まった頃、36歳という若さで亡くなってしまいます。
この記事では、国木田独歩の生涯やエピソードをご紹介します。

国木田独歩の生涯

誕生から学生時代

国木田独歩は明治4年(1871年)に千葉県銚子で生まれました。父は国木田専八、母は淡路まんといいます。父専八は瀧野藩士であり戊辰戦争に出征し銚子沖で遭難したところを助けられ療養していた際に、旅籠で働いていたまんと知り合い、独歩が生まれました。

専八は国元に妻子がいたため、戸籍上は母まんの前の夫の子となっており、国元の妻との離婚後に山口で暮らすことになったものの、独歩は自身の出生について悩んだといわれています。

少年期の独歩は成績優秀で読書好きである反面、のちに「少時、余は極めて腕白にして乱暴なりき」と自ら語っているほど、かなりのいたずらっ子でした。

14歳で山口中学校に入学し、文学に興味を持ち『西遊記』などを読んでいましたが、明治20年に山口中学の学制改革を機に退学します。級友の今井忠治にすすめられ、父の反対を押し切り上京し、法律学校に入学します。そこでは吉田松陰や明治維新に強い興味をもちましたが、結局学校をやめ東京専門学校(早稲田大学の前身)英語普通科に入学します。やがて徳富蘇峰と知り合いになり『女学雑誌』や『青年思海』などの同人誌に作品を発表するようになります。

このころ独歩は教会に通い始め、1889年の帰省中に名前を亀吉から哲夫に改名しました。さらに20歳になると洗礼を受けクリスチャンになったほか、吉田松陰に傾倒し、学校改革のストライキに参加。失敗して退学し山口へ帰郷することとなりました。

教師時代・失恋と上京

帰郷した独歩は、吉田松陰の門弟富永有隣に影響を受けて英学塾を開校し、英語や作文などを熱心に教えます。家庭教師先で石崎トミに出会い結婚を考えるものの、クリスチャンであることが原因でトミの両親に反対され、失恋し傷心のうちに弟とともに上京しました。

東京では同人誌の編集に参加しながら、徳富蘇峰の紹介で大分県佐伯の鶴谷学館へ英語と数学の教師として赴任し熱心に教えます。しかしここでもクリスチャンであることを生徒や先生が嫌ったため、1年で退職を余儀なくされました。

従軍記者と二度の結婚

三度目の上京後、民友社に入って徳富蘇峰の『国民新聞』の記者となります。日清戦争の従軍記者として軍艦に乗り込み「愛弟通信」を新聞『国民新聞』に連載し好評を得て、国民新聞記者・国木田哲夫として活躍します。

明治28年、独歩24歳のときに佐々城信子と出会い恋に落ちるものの、信子の両親が結婚に猛反対し、信子を監禁する事態になります。なんとか結婚し逗子で生活をはじめますが、5ヶ月で信子が失踪してしまい、独歩はまたもや失恋してしまいました。この顛末の一部が有島武郎の『或る女』に記されており、「武蔵野」や「鎌倉夫人」にも影響しているといわれています。

そして明治31年、独歩は下宿先にいた大家の娘榎本治子と結婚をしました。

小説家・編集者・破産

2度目の結婚の前後で、処女作「源叔父」、「武蔵野」、「忘れえぬ人々」などを発表し本格的に作家活動を始めますが、小説だけでは生計が立てられず新聞記者や編集者として働きます。また明治36年には「運命論者」、「馬上の友」などで自然主義文学の先駆けとなりましたが、時代を先取りしすぎていたのか、まだ世間からは評価されませんでした。

明治32年からの新聞記者、編集者の活動はうまくいき『東洋画報』の編集長に抜擢され、日本初の写真を主体とした本格的グラフ誌が大好評を得ました。しかしこれも日露戦争後には、世間の関心がうすれ会社は解散。独歩が引き継ぎ「独歩社」を設立するものの翌年には破産してしまいました。

名声の高まりと晩年

独歩社はなくなりましたが、世の中が追いついてきたのか自然主義文学が最盛期を迎え、先駆者であった独歩は名声をあびることなりました。
そんな矢先に独歩は肺結核にかかってしまいます。「竹の本戸」などの作品を世に出し、高い評価をえる一方、神奈川県茅ヶ崎の療養所で入院生活を過ごし、田山花袋や二葉亭四迷らが見舞いにくることもありましたが、明治41年6月23日に、38歳(満36歳)で死去しました。

性格を物語るエピソード

幼少期のあだ名は「ガリ亀」

国木田独歩の幼名は「亀吉」といい、爪を伸ばして人をひっかくため「ガリ亀」と呼ばれていました。ガキ大将でイタズラ者でしたが、頭の回転が良く場を盛り上げるユーモアもあったそうです。

1人目の妻の失踪

山口での家庭教師時代に知り合った、佐々城信子が独歩の1人目の妻でした。信子の両親の激しい反対を押し切って結婚しますが、余りの貧困生活に耐えられず信子は失踪してしまいます。この事件について信子の親戚の手記によると、独歩が理想主義的で独善的、男尊女卑の傾向があったと書かれています。

死因と早すぎる死

国木田独歩は、明治41年6月23日に38歳(満36歳)で亡くなりました。死因は肺結核です。死の前年、神奈川県茅ヶ崎にあった結核の療養所南湖院で養生を始め、田山花袋や二葉亭四迷、岩野泡鳴らが見舞いに訪れ『二十八人集』を刊行して励まそうとした話があります。独歩の葬儀には多数の文壇関係者や内閣総理大臣の代理人も参列し、壮大に執り行われました。

まとめ

今回は、国木田独歩の生涯やエピソードをご紹介しました。幼少期にイタズラ者であったり、恋多き姿や小説家のほかにも、詩人、新聞記者、編集者、教師、会社経営などに活躍するアクティブさが感じられます。初期の浪漫的な作品から、自然主義文学の先駆けとなった作品は後世の評価も高く、若くして亡くなったのが悔やまれる作家でもあります。独歩の作品は短めでユーモアがあり、気軽に読めるものが多いので、気になる作品からぜひ、読んでみてください。

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