小松左京ってどんな人?その生涯や家族は?性格を物語るエピソードや死因は?

出典:[amazon]やぶれかぶれ青春記・大阪万博奮闘記 (新潮文庫)

SF小説をあまり読まない方でも、小松左京という名前を一度は聞いたことがある人が多いと思います。「日本沈没」などの大胆な発想で知られる小松左京は、長きにわたり日本のSF小説界を牽引し、星新一や筒井康隆とともに「SF御三家」の1人と称されています。昭和に生まれ、SFブームを巻き起こした小松左京はどのような生涯を送ったのでしょうか。今回は小松左京について紹介します。

小松左京の生涯

小松左京の生涯を時代ごとに紹介します

誕生から学生時代

小松左京(本名・小松実)は、1931年(昭和6)、大阪府大阪市に5男1女の次男として生まれました。父が大阪で金属加工の町工場を営んでいたため3歳まで大阪で過ごしましたが、その後兵庫に移住し、尼崎で少年時代を過ごしました。少年時代の小松は病弱だったそうですが、その一方で漫画や映画、読書に熱中し、歌舞伎や文楽にも興味を示した文化的な少年時代を過ごしています。小松の好奇心旺盛な性格は、少年時代に培われたのかもしれません。
1943年(昭和18)、旧制中学に進学した小松ですが、時代は太平洋戦争に突入間際だったことと、戦時中は徴兵年齢が徐々に引き下げられたことから「自分も戦争で死ぬのだろう」と考えていたそうです。しかし幸いにして戦地へ赴くことなく配属先の造船所で終戦の知らせを聞いた小松は、後年この時代を「空腹と暴力の時代」と回顧しています。

終戦を迎え旧制中学を卒業した小松は、第三高校を卒業したのち、京都大学でイタリア文学を専攻します。イタリア文学を専攻した理由は、壮大なスペクタルで綴られるダンテの「神曲」を読んだことがきっかけでした。京都大学に在学してからの小松は「京大作家集団」や「土曜の会」、「ARUKU」などの同人誌で作品を発表したり、モリミノル名義で「おてんばテコちゃん」、「イワンの馬鹿」といった漫画を発表するなど創作活動に没頭します。またこの頃、原爆を使用したアメリカへの反発から一時的に共産党員となった小松は、党員として政治活動も行いましたが、ほどなく離党しています。

京都大学を卒業するも就職活動がうまく行かなかった小松左京でしたが、友人で作家の三浦浩の紹介で産経新聞にレビューを投稿したり、経済誌の記者をして生計を立てていたようです。

SF作家小松左京の誕生

父が経営していた町工場の経営が傾き、小松左京自身も経済的に苦しい毎日を送っていましたが、上述の三浦浩から「SFマガジン」について聞いたことが契機となり、SF作家を志すようになります。1961年、第1回空想科学小説コンテスト(現ハヤカワSFコンテスト)に応募した「地には平和を」が努力賞を受賞(のちに直木賞候補となる)。第2回同コンテストでも「お茶漬けの味」が3等となり、1962年、「易仙逃里記(エキセントウリキ)」で作家デビューします。
1960年代、30代という若さだった小松左京ですが、その活動は作家だけにとどまらず、日本SFクラブの創設や、当時話題となった「万国博」を考える会の結成。さらには大阪万博のテーマを検討するなど、社会的な活動も精力的に行います。また、ベトナム戦争に反対する政治運動や、落語家の桂米朝とラジオパーソナリティを務めるなど、まさにマルチな才能を発揮しています。
1970年にはアメリカ、イギリス、ソビエトから人気SF作家を招いた「国際SFシンポジウム」を主催。東京、名古屋、大津などで開催された同シンポジウムは、アメリカを代表するSF作家アーサー・C・クラークなどの参加で好評を博し、日本からも多くの作家たちが参加しました。また同年、小松は日本万国博覧会(万博)のサブ・テーマ委員も務め、「太陽の塔」内の展示にも携わっています。

日本SFクラブ会長就任から晩年にかけて

「日本沈没」が空前の大ヒットとなり、1980年に日本SF作家クラブの会長に就任した小松左京。小松はさらにSF作品を普及させるために、「日本SF大賞」の設立に尽力します。小松が設立した日本SF大賞受賞者には、作家の荒俣宏や宮部みゆき、漫画家の萩尾望都(はぎお・もと)、押井守など、そうそうたるメンバーがいます。ジャンルにこだわらない同賞のスタイルは、2022年現在でも受け継がれています。
また、1990年には「国際花と緑の博覧会」の総合プロデューサーを務め、期間内の来場者が2000万人を超えるという空前の大成功を収めました。この時期の小松左京は、作家活動を軸にした「総合エンターテイナー」と表現した方が良いかもしれません。

2000年代に入ると、小松左京賞の設立や「小松左京全集」が刊行されるなど、その人気は衰えませんでしたが、東日本大震災が発生した2011年7月、肺炎のためこの世を去りました。享年80歳でした。

小松左京の家族情報について

小松左京は、自身が所属していた劇団のオーディションに来た、下山克美という女性に一目惚れし、のちに結婚しています。2人の息子を授かり、長男・小松実盛は作品の文庫版の解説などをしています。

また、弟の小松伸也教授は関西大学化学生命工学部で研究者として活躍し、2018年(平成30)、瑞宝中綬章を受賞しています。

小松左京にまつわるエピソードは

・小松左京はお酒が入り上機嫌になると作家仲間の話をよくしていました。宇宙の話や民族学の話、食事やお酒についても造詣が深かったようですが、なかでも星新一のモノマネは秀逸で、酒に酔うと大声で星新一の恥ずかしいエピソードを語ったそうです。

・幼い頃から育った関西に強い愛着を持っていた小松左京。関西地方を盛り上げるために、1977年から1982年の5年間にわたり大阪フィルハーモニー交響楽団のイベントプロデュースに携わり、さらには関西の歌舞伎界を応援する目的で結成された「関西・歌舞伎を愛する会」の代表世話人を20年以上も務めました。作家として若手の育成にも尽力していたことからもわかる通り、とても面倒見の良い人物として慕われていたことがわかりますね。

まとめ

今回は小松左京の生涯やエピソードについてご紹介しました。SF作家として親しまれている小松ですが、その作品群にはホラーあり、ミステリーありで、アンソロジーなどに取り上げられることもしばしばです。また、小松左京はさまざまな学者とも対談しており、それらを読むと小松の博学ぶりに驚かされます。SF作品はもちろんオススメですが、学者との対談もぜひ読んでみてはいかがでしょうか。

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