イワン・ツルゲーネフってどんな人?その生涯は?性格を物語るエピソードや死因は?

出典:[amazon]ツルゲーネフ作品集

レフ・トルストイ、フョードル・ドストエフスキーと並んでロシアの大作家として知られるイワン・ツルゲーネフ(1818-1883)。日本ではロシア語を得意としていた二葉亭四迷によってツルゲーネフの作品は翻訳され、1888年には広く紹介されました。この大作家の知られざる素顔が気になる方も多いでしょう。
今回は、イワン・ツルゲーネフとはどういう人物だったのか、性格やちょっとしたエピソードなども交えてご紹介していきます。

イワン・ツルゲーネフの生涯について

イワン・ツルゲーネフは、上流階級特有の優雅さと気品を身に着けた好青年であったことが知られています。才能と知性にも恵まれ、何にも不自由がなかったようです。大作家は精神的に病んでいたり、思想が前衛的すぎたり、性格がいまいちだったりということが多く見受けられますが、ツルゲーネフはいずれにも当てはまらない、ちょっと珍しい人物です。その性格はむしろ温厚で、常に上流階級特有の余裕を持ち合わせていたと言います。

ロシア帝国の貴族として生まれ育つ

ツルゲーネフは1818年、オリョール県下スパスコエ・ルートヴィノヴォ村の富裕な上流家庭に生まれます。父親は騎兵大佐、母親は5000人の農奴つきの広大な領地を持つ資産家婦人でした。しかし、両親の仲はすっかり冷めており、子供への愛情さえもなかったようです。そのためツルゲーネフは非常に寂しい幼少期を過ごすことになります。この経験は後に執筆する小説にも影響を及ぼしており、「初恋」や「プーニンとバブーリン」でははっきりと両親の描写を見て取ることができます。

14歳になったツルゲーネフはモスクワへ移り、モスクワ大学文学部で学び始めます。しかし翌年には家庭の事情でペテルブルグ大学へ移籍し、古典語やヘーゲル哲学を学ぶことになります。

農奴制度に対する不満を持つ

20歳になったツルゲーネフは祖国を飛び出し、ドイツへ遊学します。ベルリン大学で古典語、歴史を研究し、3年間ベルリンで過ごします。この間に隣国のイタリアにも足を延ばし、見識を深めています。この経験から、以前より疑問を抱いていた祖国の農奴制に対し、いよいよ不満を募らせていきます。

帰国後は農奴に対し冷酷な仕打ちをする母と距離を置くために、モスクワに留まり一時的に内務省に勤務します。農奴制に対する不満をツルゲーネフは執筆にぶつけます。「同時代人」詩に寄稿していた「猟人日記」はまさに農奴制を批判する内容のものです。
ツルゲーネフが32歳の時に母親が亡くなります。ツルゲーネフは母の死を機に領地の農奴の生活改善を行います。

翌々年には「猟人日記」が出版され、農奴制に疑問や不満を持つ人々の心を動かします。それから9年後の1861年には農奴解放令が発布されるに至るわけですが、農奴解放令にこぎつける一つの大きな契機を作ったのはツルゲーネフの「猟人日記」に他ならないと言われているほどです。

恋と創作活動

ツルゲーネフが執筆活動を開始したのは、ドイツ留学から帰国してからです。1843年に1幕喜劇の「うかつ」を発表し、叙事詩「パラーシャ」が批評家ベリンスキーの激賞を受けたことで執筆活動に精を出すようになりました。

時同じくして、ツルゲーネフは最初で最後の一生モノの恋をします。相手はフランスの歌姫ポーリーヌ・ヴィアルドー夫人です。ポーリーヌは既に結婚し4人の子供にも恵まれていたため、ツルゲーネフは結婚を申し込むことはできませんでした。しかし、すっかり一目惚れしてしまったツルゲーネフは彼女を追いかけて度々フランスに押しかけ、彼女の家で執事のような家庭教師のようなことをして過ごしました。ポーリーヌもツルゲーネフがよく子供の面倒を見てくれて助かっていたので、ツルゲーネフの作品発表に尽力しました。いわゆるな恋愛関係には一度としてなりませんでしたが、ポーリーヌとツルゲーネフは深い絆で結ばれ、生涯良き友として交流を持ち続けました。ツルゲーネフはポーリーヌに心底惚れ込んでいたので、生涯独身を貫き通しました。

晩年

50代にもなると、ロシアではほとんど活動せず、フランスを拠点にヨーロッパで活動していました。ロシアの文学作品をヨーロッパのサロンで紹介し広めたり、逆に最新のフランス文学をロシア語に翻訳してロシアで紹介したりと、執筆活動よりもロシアとヨーロッパの文学の交流に尽力していました。イギリスでもロシアの民謡や民俗などを紹介し、その功績からオックスフォード大学から博士号を授与されています。

60歳を過ぎたころから身体に衰えを覚えており、徐々に病床で過ごす時間が長くなりました。そして66歳でこの世を去ります。

現在のロシア人男性の平均寿命が68歳であることを考えると、ツルゲーネフは長生きした部類に入るのではないでしょうか。死因もはっきりしていませんが、老衰と考えて差し支えなさそうです。

イワン・ツルゲーネフとフョードル・ドストエフスキー のエピソード

ツルゲーネフとドストエフスキーは大変仲が悪かったことで知られています。ここではそんな二人にまつわるエピソードをご紹介します。

出会い

1845年、ドストエフスキーは「貧しき人びと」でデビューを飾ります。一躍脚光を浴び、ロシア文豪界にも顔を出すようになったドストエフスキーはそこで気品麗しい美男子ツルゲーネフと出会います。見た目だけではなく、才能も知性もある先輩文豪にドストエフスキーは心底惚れ込んでしまうのでした。しかし住む世界が違いすぎる二人は、文化の差、階級の差、信念の違いなどからどんどん対立するようになります。

ツルゲーネフをとことん貶めるドストエフスキー

ドストエフスキーは1871年に発表した「悪霊」で、悪霊の一人のモデルがツルゲーネフであることを示唆しています。同作に登場するカルマジーは文豪気取りの俗物作家という役どころで、カルマジーが自身の作品を朗読する場面でも明らかにツルゲーネフ作品の一部をアレンジしたと分かるものが当てられているのです。これにはさすがのツルゲーネフも怒り、ドストエフスキーときっぱり絶交したと言われています。

まとめ

貴族の子として生まれるも、農奴解放に一石を投じた文豪ツルゲーネフについて解説してきました。争いを好まない、温厚な人物ながら、内には確固たる信念を秘めた強い人物であったことがうかがえます。また、生涯にわたり一人の女性を一途に愛し続けたロマンチストであったことも分かりました。作家の性格や生涯を知って、改めて作品を読むと新たな発見もあるはずです。ツルゲーネフ作品を読書候補にリストアップしてみてはいかがでしょうか。

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