星新一ってどんな人?その生涯や家族は?性格を物語るエピソードや死因は?

出典:[amazon]きまぐれ星からの伝言 (文芸書)

奇抜なアイディアとウィットに富んだ作風で知られるSF作家星新一。ショートショートと呼ばれる短い作品を数多く執筆し、その作品は現代でも多くの読者に愛されています。星の作品は、平易な文体とわかりやすい内容のため、子供のころに読んだことがある方も多いのではないでしょうか。「ボッコちゃん」をはじめ、生涯で1000編以上もの作品を残した星新一とはどのような人物なのでしょうか。この記事で少しでも星新一に興味を持っていただければ嬉しいです。

星新一の生涯について

 

星新一について紹介します。私たちから見ると羨ましい限りの生い立ちと経歴ですが、意外に苦難の多い人生だったようです。

生い立ちから大学院中退まで

星新一(本名・親一)は、1926年(大正15・昭和元)に東京府東京市本郷区(現・文京区本郷)に生まれました。父は星薬科大学の創始者であり、星製薬の創業者の星一(はじめ)です。幼少のころから不自由のない生活を送った新一は、東京高等師範学校(現・筑波大学付属中学・高校)に進み学生時代を謳歌します。映画監督の今村昌平や児玉進は中学時代の同級生です。優秀だった新一は飛び級で大学へ進学し、東京大学農学部に通います。

高校時代に1年間だけ寮生活を送りましたが、温室育ちの新一の性格には合わなかったらしく、後年「不快きわまるばかり」と辛辣に回想しています。このあたりにモラトリアム時代を存分に楽しんだ小松左京との性格の違いを感じます。

大学を無事に終了した新一は、国家公務員試験を受けて合格したものの、内定を得られず、さらに役人嫌いだった父の反対もあり、大学院に進学して化学の研究に取り組みます。研究テーマは消化酵素(アミラーゼ)についてでした(新一は本当の化学者でもあったのですね)。

父の急逝、作家の道へ

修士課程を修了し、そのまま博士課程へ進学を予定していた新一でしたが、1951年の1月に父が急逝したことで、父が経営する会社を引き継ぐはめになります。しかし新一に経営経験などあるはずもなく、さらには会社が破綻状態にあったため、その処理に忙殺される毎日を送ります。最終的に会社を大谷米太郎(ホテルニューオータニの創設者)に譲渡し、ことなきを得ました。しかし後年、「この数年間を思い出したくない」と言わしめるほど新一にとって辛い経験をした時期でした。

そんな悲嘆な思いの中、新一は1冊のSF小説と出会います。その作品とはアメリカのSF作家レイ・ブラッドベリの「火星年代記」でした。作品を読んだ新一は深い感銘を受け、さらに、たまたま近くにあった「日本空飛ぶ円盤研究会」に参加することで、新一の作家としての人生が開かれることになりました。この研究会には、三島由紀夫や石原慎太郎なども参加していました。

その後、日本空飛ぶ円盤研究会で知己となったSF翻訳家・作家の柴野拓美らとSF同人誌「宇宙塵(うちゅうじん)」を創刊します。そして同雑誌2号で新一が発表した「セキストラ」が注目され、この作品が江戸川乱歩が編集を務めていた雑誌「宝石」に転載されたことで、新一は作家デビューします。

人気SF作家は40代で巨匠?そして晩年。

作家デビューした新一は、持ち前のユーモアセンスとウィットを活かして「ショートショート」作品を量産します。平易な文章で書かれた作品はあっという間に大衆の人気となり1960年に「弱点」や「雨」などの作品で直木賞候補となります。また他ジャンルのSF分野のアドバイザーも務めた新一は、漫画家・横山光輝の「鉄人28号」の実写版作成や「ウルトラQ」の企画にも参加するなど、その才能を多方面で発揮しました。多くの読者を獲得しまた多産でもあったことから、星新一は40代にして「巨匠」や「長老」と呼ばれていました。

さらには、日本SF作品の発展のため「日本SF作家クラブ」設立に尽力し、クラブ設立後の1976年から1977年にかけて初代会長を務めています(SF作家の半村良は、同クラブ設立前の事務局長を務めていました)。1983年、発表作品が1000作を超えたところで休筆を宣言し、以降は後進作家の育成や自身が執筆した過去作品の改訂を主な仕事としました。

星新一が頻繁に改訂したのは、「変化する時代に合わせる」ためだったそうです。こうした細かい配慮が、星新一の作品が今でも読まれている理由の1つです。なお、1000作目の作品がどれにあたるかバレないように、各出版社に複数の作品を同時に送った話はよく知られています。

晩年は長く住んだ品川区から高輪に引越し、1997年、間質性肺炎のためこの世を去りました。享年71歳でした。

星新一の面白いエピソード

星新一のエピソードをご紹介します。

職を失ってもお金持ちの御曹司

父が急逝したことで経営難に陥った会社を引き継いだ新一は財務処理に奔走します。多くの人は、会社を譲渡して作家デビューするまでのおよそ6年間、お金に困っていたのではないかと思われるかもしれません。しかしこの間、新一は星薬科大の非常勤理事を務め月給10万円の給与が支払われていました。1950年代当時のサラリーマンの月給が16000円だったことを考えると、さすが御曹司。

幼少時代は寂しがりやだった?

何不自由のない幼少期を送った新一ですが、意外にも寂しがりやだったのかもしれません。子供の頃の話し相手は、「熊のぬいぐるみ」だったそうです。

日本SF作家クラブの初代会長が作った入会資格

日本SF作家クラブの初代会長を務めた星新一。新一はクラブの入会にユニークな条件をつけました。例えば「死んだ人はダメ」「宇宙人はダメ」、「馬はダメ」といったものです。
もちろんユーモアによるものですが、これが通ってしまうのもこのクラブの面白さでしょうか。

親戚がすごい!

家系図を見てみると、星家の家柄の良さがわかります。

父親は製薬会社の社長にして大学まで作った大人物

これはよく知られていることですが、父・星一は星製薬会社の創業者であり、星薬科大学の創立者でもあります。それまでは外国の輸入に頼っていた薬剤の国産化に着手し、「東洋の製薬王」と称された人物です。さらに、医学者の野口英世のパトロンであったことでも知られています。

母方の家系は文化人揃い

母方の祖父は明治から昭和にかけて活躍した解剖学者兼人類学者の小金井良精(よしきよ)で、祖母はなんと森鴎外の妹・喜美子です。鴎外はもちろんのこと、妹の喜美子も明治時代を代表する歌人・随筆家です。

まとめ

今回は星新一の生涯について紹介しました。星新一の若い頃の写真を見ると、まさに「おぼっちゃま」という印象で育ちの良さを感じます。星新一が残した数々のショートショートは、わかりやすく、人を傷つけず、なにより面白い。普段の生活に疲れている人も、星新一の作品を読んで「クスッと」して心をリフレッシュしてみてはいかがでしょうか。

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