遠藤周作ってどんな人?その生涯・妻は?性格を物語るエピソードや死因は?

出典:[amazon]遠藤周作『沈黙』作品論集 (近代文学作品論集成 (20))

遠藤周作は大正~平成を生きた作家で「第三の新人」と呼ばれる、第二次戦後派作家に続く世代を担った人物です。12歳のときカトリック教会で洗礼を受け、日本に生きるキリスト教徒として葛藤を抱えながらも多くの作品を発表し、数々の賞を受賞しました。キリスト教をテーマとした純文学だけでなく、ユーモアのあるエッセイや戯曲、歴史小説など作品は多岐にわたります。
今回は、遠藤周作の生涯やエピソードをご紹介します。

遠藤周作の生涯

ここでは遠藤周作の生涯についてみていきます。

誕生から、キリスト教洗礼

遠藤周作は1923年に現在の東京都豊島区で、銀行員の遠藤恒久と東京音楽学校ヴァイオリン科に在籍していた郁の間に次男として生まれました。1926年に、父の転勤で満州の大連に引っ越し、1929年には大連市の小学校に入学します。この頃の周作は、勉強がよくできる兄と比較され父に説教されることが多く、強烈な劣等感を抱いていたといわれています。

そんな父に愛人ができ、両親は離婚。周作は母に連れられ帰国し、兵庫県にある伯母の家で暮らし始め、カトリック夙川教会に通うようになりました。周作は1935年に私立灘中学校に入学し、その後洗礼を受けます。

学生時代と第二次世界大戦、そして留学

周作の学生時代の成績はそれほど高くなく、大学受験には苦労しました。浪人後に父の反対を押し切って、慶應義塾大学文学部予科に補欠合格し進学します。カトリックの学生寮白鳩寮に入寮した周作は舎監の義満義彦の影響でジャック・タマリンなどを読みはじめ、亀井勝一郎や堀辰雄などと知り合いました。学生寮での生活は、周作にとってはじめての開けた世界でした。

時は第二次世界大戦まっただ中。周作は胸膜炎のため戦地に行かずに終戦を迎えました。終戦後は、東京大空襲で寮が焼けてしまったため、父恒久の家で生活しながら、大学でフランスのカトリック文学に傾倒していきました。この頃の周作は評論を書いており、初の評論「神々と神と」が『四季』に掲載され「カトリック作家の問題」も『三田文学』に発表し、正式に三田文学の同人となりました。

1950年周作は、戦後初のフランス留学生としてフランスへ行き、リヨン大学に入学します。フランスでの見聞をエッセイや小説風のルポタージュにまとめるなどしましたが、肺結核をおこし療養所に入り、一旦退所したものの今度は入院し、リヨン大学を断念して帰国することとなります。

結婚、そして作家活動の本格開始

フランスから帰国した周作は、起業家岡田幸三郎の長女で慶應義塾大学文学部仏文科在籍の岡田順子と交際します。同じ頃、最愛の母が急死するという大きな悲劇も経験しました。

1954年からは文化学院の講師を務め、本格的に作家活動を開始します。この時発表した「アデンまで」は仲間内から高い評価を得て、「白い人」が1955年に芥川賞を受賞し、順子との結婚も実りました。翌年には長男も誕生し、上智大学文学部の講師としても勤めました。

さまざまな賞の受賞と度重なる病気

1957年に九州大学生解剖事件を主題にした小説「海と毒薬」を発表し、新潮社文学賞や毎日出版文化賞を受賞し、小説家としての地位を確立していきます。

また1959年にはマルキ・ド・サドの勉強のため、順子夫人とともにフランスへ渡ります。サドの研究家に会い、イギリス、スペイン、イタリア、ギリシャ、エルサレムを巡りました。帰国後、肺結核が再発し入院し、3度にわたる手術を受け、危篤状態を脱し退院しました。

1966年には『沈黙』が谷崎潤一郎賞を受賞し、三田文学の編集長にもなります。その後も続々と作品を発表し、賞を受賞していきました。1993年には腹膜透析の手術を行い、回復しますが苦痛は続きます。1995年には文化勲章を受章しますが、1996年には腎臓病治療のための入院中に脳出血をおこし、食事中の誤嚥性肺炎により73歳で死去しました。

遠藤周作の妻や性格を物語るエピソード

妻・順子

遠藤周作の妻順子は、慶應義塾大学文学部仏文科在籍中に周作と知り合い、2年の交際を経て結婚します。夫と暮らした日々を綴った『夫・遠藤周作を語る』や『夫の宿題』、『再開 夫の宿題それから』が著書です。NPO法人「円ブリオ基金センター」の名誉理事長を務めるなどしました。

エピソード

周作は、重いテーマの純文学作家として活躍する一方で、1963年に東京の玉川学園に転居した頃から雅号を「雲谷斉狐狸庵山人」として、別のキャラクターでも執筆活動を開始します。「狐狸庵」とは「狐狸庵閑話」が関西弁の「こりゃあかんわ」の意味というシャレで、花鳥風月を愛し、ぐうたらでなまけものだが、言いたいことは言う性格の狐狸庵山人が、身辺雑記の随筆を書くという設定になっています。狐狸庵山人はユーモアのある随筆を数多く発表し、親友の北杜夫ともコラボしてテレビCMに出たこともありました。

他にも素人劇団「樹座(きざ)」、音痴のみの合唱団「コール・パパス」を組織するなどユーモアのある活動も多岐にわたっていました。

まとめ

12歳に洗礼を受けてから、日本にいるキリスト教徒としての葛藤や第二次世界大戦、度重なる入院を経験しながら、数多くの多様な作品を発表し続けた遠藤周作。彼の作品は、人間の本質にせまり心をえぐられる重いテーマからコミカルなものまであります。興味の湧いたものから、ぜひ読んでみてください。

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